球団代表の温情がうれしかった1997年オフの契約更改…ドーム移転で成績下落、チームは最下位に沈んだ
そんな言葉をかけてくれたことがうれしかった。実際のダウン額は1000万円。本塁打を20本も減らしたから、俺的にはもっと下げられると思っていた。フロントの温情があったのかもしれない。
98年は打撃重視から投手を中心とした守りの野球への方針転換を迫られた。97年オフに大豊泰昭さんが阪神にトレードされたことで、俺は左翼手から一塁手にコンバート。本塁打は19本から27本に増えたものの、打率.255、86打点だった。
「俺の実力はこんなもんだったのか……」
そんなことが頭をよぎるようになってきた。今、バンテリンドームで27本打ったら「すごい」と言われるかもしれないけど、そうじゃなかった。もっと高いところを目指していたし、本塁打30本が自分の中の「合格ライン」だった。だから、自分が思っていたような伸びしろがなかったことにガッカリした。
だからといって、誰かに相談するとか、技術を突き詰めるということはあまりしなかった。というか、「知らなかった」と言った方がいいか。先輩にアドバイスを求めるという「時代」じゃなかった。
そんな中で、野球についてたわいもない話ができる後輩が入ってきた。福留孝介である。



















