(3)十文字に裂かれた遺体に唾を呑む
「……そうか」
第一発見者である通報者には、是が非でも会いたいのが刑事の性だ。だがこのような場合、案外と通報したのちに消えてしまうケースもある。理由は簡単で、まず近くに犯人がいるのではないかという恐怖心、そして「巻き込まれたくない」という人間がいるのも事実だ。「通報したのだから最低限の義務は果たした」と考えるのを責めることはできない。まして、このような凄惨な遺体らしきものを発見すれば、一刻も早く立ち去りたい気持ちもわかる。それとも、なにか事情があったのか--。
すると背後から足音がきこえた。微かなヒールの音だった。
「おつかれさまです。遅くなりました」
「おう。悪いな、非番に」
「いえ」
庄子が振り返ると、そこには麻布警察署刑事課強行犯捜査二係の一之瀬林檎が立っていた。大学卒業後に警察学校へ入校し、半年の研修を経て警視庁麻布警察署に卒業配置となり、そのまま六本木交番で二年間の交番勤務を終えた二十七歳だ。いまはまだ庄子から見れば赤子ともいえる、刑事二年目の新人だった。通称、「林檎」。
林檎は十文字に裂かれた遺体を見て、唾を呑んだ。が、若手とはいえ刑事の矜持なのか、それとも元来持っている気のつよさからか、すぐに表情を戻した。
「女性アナウンサーの矢島紗矢で間違いないですよね。身元を確認する物は?」
「ああ、さっき鑑識が鞄のなかにあった財布を確認した。免許証と保険証からも彼女で間違いないだろう」
林檎は黙って、すこし口角を曲げ遺体を見つめた。庄子はしばし、放っておいた。
「でもなんでこんな時間にひとりで歩いてたんだろうな」
「通報は何時ですか?」
「最初にリモコンに入ったのが、午前二時一分くらいだ。煙草吸いたくて時計ばかり見ていたから、よく覚えてるよ」
庄子が言うと、林檎は頬を緩めた。彼女は容姿端麗だ。が、それを鼻にかけたりはしない。時としてそれが損になる事も知っているのだろうし、元々が大学時代はなにかホウキのような棒を持って走り回るスポーツ--ラクロス部でキャプテンも務めていたくらいだ。元来の明るさと周りを見渡せる目を持つ林檎を、庄子は密かに評価していた。
「煙草、止めたほうがいいですよ」
「うるせえ。刑事辞めたら煙草も止めるよ」
林檎は庄子の発言に微笑を浮かべたが、すぐに戻した。
「この時間に歩いていたのは、朝の生放送のためでしょう。彼女が司会をつとめる朝のニュース番組は、午前五時スタートですから」
「なのにこんなに早く出社するのか?」
「庄子さん。女性はメイクも髪の毛のセットもあるんです。おまけに彼女には衣装や番組の打ち合わせもあるでしょうし。庄子さんみたいに髪の毛になにかつけてばーっと上げて、スーツ着るだけじゃないんですから」
庄子はいつもの黒いスーツ、ネクタイを緩めボタンを外した白シャツ姿の自らを見た。林檎は膝を曲げ、遺体に視線をむける。じっと観察し、やがて立ち上がった。
「いいか?」
「はい」
「じゃ、いちど署に戻るぞ」
林檎は遺体に、しずかに手を合わせた。
庄子もゆっくりと手を合わせた。
(つづく)