(2)蒸し返すような暑さと湿気
東京のハイセレブな連中がこぞって集まる街とは思えぬ、薄暗く灰色の階段を下る。二階へ降りると麻布署に詰めている番記者たちが井戸端会議をしていた。庄子は隣の刑事に目だけをむけ、歩を緩めるように指示する。大手新聞社の記者が、「事件ですか」と問う。
庄子は、
「煙草だよ」
と言い、彼らが見えなくなると再び階段を駆け下りた。
署の表へ出ると、蒸し返すような暑さと湿気が地から跳ね返り、一気に躰を包み汗ばむ。右へ行けば東京でも随一の繁華街、六本木交差点。左へ行けば西麻布。今日も都会の喧騒に身を置く人間たちの姿と眠らぬ車たちが溢れている。車両でむかえば真夜中だというのに渋滞に巻き込まれるだけだ。
「走るぞ」
庄子は五十歳の躰に鞭を打ち、コンクリートの地面を蹴った。
六本木ヒルズにほど近い、裏路地に辿り着く。荒れる息を整え、辺りを見る。まだ報道陣もやじ馬たちも誰もいない。道の先には鑑識係の警察官が現場を保持している姿が見える。
「庄子警部補。おつかれさまです」
「おう」
見慣れた鑑識係の声に返し、彼らの背の後ろからコンクリートの地を覗く。
──白いスカートを穿いた女性らしき姿が見えた。
顔を見ると、まるでそこだけ六本木の外灯をスタジオの照明に変化させたように、美しき女が微かに照らされ、横たわっていた。死してなお美貌を保つ被害者は、間違いなく人気女子アナウンサーの矢島紗矢だった。
目の前の鑑識係が、横にずれた。
警察官生活三十年余り。そんな庄子でさえ、思わず顔をしかめた。
それほど醜い遺体だった。
目を凝らすと、美しき女子アナウンサーの上半身はスカートとおなじ、白い薄手のニットを着ていた。だが可憐さと反するように、アスファルトに大の字で倒れる彼女の上半身は、深く十文字に抉られ切り裂かれている。内臓の一部も目視できた。その中央には凶器とみられるナイフが一直線に突き刺され、まるで彼女は、十字架に赤く染まる真夜中の聖者のようだった。
「やばいな……でかい案件になるぞ」
庄子は六月の梅雨交じりの湿気に額から汗を垂らしながら、呟く。現場にはおそらくいちばん早く到着したであろう、二名の交番勤務の制服警察官が立っていた。庄子は鑑識の輪を抜け、彼らに近づく。ふたりは庄子を見て敬礼する。
「ご苦労さん。通報者は」
「それが、いないんです」
「いない?」
「通報したあと、現場近くにも留まらなかったようで……」
(つづく)