著者のコラム一覧
ショーファー佐野作家

ケネディ暗殺の翌年である1965年、アメリカ合衆国テキサス州ダラスに生まれる。早稲田大学理工学部を卒業後、有名総合商社に勤務するも、早々に退職。輸入時計販売業を始める。一期一会を噛みしめながら、一本、一本丹念に販売実績を積み上げてきた。輸入時計を通じて広げた人脈には成り上がり、強者もいれば、化け物もいる。猛者たちとの対峙が己の人生を形作ってきたと考え、本書「高級時計 千夜一夜物語」を書き下ろした。

第2話:全部なくなっちゃったよ…

公開日: 更新日:

当事者が初めて書いた妖しい業界の舞台裏 見栄と欲望、光と闇

アイテム:ROLEX 116528Gブラック8Pダイヤ、ROLEX 116509 メテオライトローマン、カルティエ デクラレーション
お客様:安西 丈一郎 様

  ◇  ◇  ◇

 屋外に出ると干上がりそうな暑い日に、テレビの向こうの甲子園球児たちは白球を追っている。
 私自身も高校球児だったため、この期間、店頭の接客は他のスタッフに任せて、もっぱらオフィスでの電話応対やメール処理に専念するという名目のもと、実際にはテレビに釘付けとなっている。
 この日が終われば明日は最も面白いと言われる準々決勝が行われる。
 上位8校による熱戦を4試合も立て続けに堪能出来る最も贅沢な日である。

 そんな時に電話が鳴った。
 試合が拮抗している時は対応が疎かになることが見えているので、他の者に応対を頼むのだが、営業や納品等で他のスタッフも出払い、オフィスは私だけだった。
 3回戦最後の試合も大勢が決した状況だったのでワンコールで電話を取ると、記憶にある限り、人生で聞いた中でもっとも掠れ声の安西氏からであった。
「安西です」
 名前は聞き取れる。
「先日はどうも有難うございました」
「こちらこそ、有難うね。こっちの無茶にも応えてくれてさ」
 先日納品した116528Gのことを言っているのだ。
 後半は聞き取りづらいが、
「とんでもございません、それが我々のお仕事ですから」
「今、高校野球観てたの?」
「あ、はい」
「どうかなぁ? 明日の準々決勝は」
「いやぁ、どうでしょうねぇ」
「社長の予想はどうよ」
(と、尋ねられてもなぁ……)
 即答しかねている時に瀬上亮介氏の顔が思い浮かんだ。
(そうだ、あいつに聞こう)
「安西さん、一度お電話を切らせて頂いて、きちんと予測を立てた上で折り返しを差し上げる形でもよろしいでしょうか?」
「全然大丈夫だよ、じゃあ待っているね」
 と一度電話を切る。
 勝利した高校球児たちが校歌を歌っていた。

 瀬上亮介氏は弊社が時計の買い付けを依頼している輸入業者のひとつである。

 瀬上氏は元高校球児で甲子園出場経験があり、のちに六大学野球に進み、プロ野球ドラフト候補にまで上がったという経歴の持ち主である。
 瀬上氏の自己申告ではあるが……。

 瀬上氏に電話を掛け主旨を説明すると準々決勝に勝ち上がった8チームの特徴を淀みなく説明し、4試合の勝敗予測を予想スコアまで含め丁寧にレクチャーしてくれた。

 瀬上氏の見立てを、さも自分が予測を立てたような口ぶりで伝えつつ
「安西さん、野球は筋書きのないドラマですから、参考程度に留めておいて下さいね」
 と、釘も刺しておいた。
 後で「損した」などと、逆恨みされても困るので。
「わかってる、わかっている、有難うね」
 と、そそくさと電話を切られた。

 安西氏の掠れ声を初めて耳にしたのは数カ月前のことである。
「デイトナの無垢、金無垢ね、イエローゴールド無垢。ダイヤ入ってるヤツ、ある?」
 と、私には聞こえたので確認もこめて
「ROLEXコスモグラフデイトナ、イエローゴールド8ポイント・ダイヤ116528Gですね?」
 ブランド名、モデル名、品番を滑舌よく口に出した。
「そう、そう、それそれ」
 合っているようだ。
「文字盤のお色は?」
「黒、黒」
 ROLEX 116528Gブラックはベゼルや文字盤、ブレスレットにダイヤ等の貴石がセッティングされた特殊なラグジュアリーモデルを除いた定番品では最も「押し出し」の強いモデルだと思う。
 これを選ぶ時点で安西氏の人となりが見えてくる。
 今では懐かしい毒島氏(第1話登場)の姿かたちと安西氏のイメージを重ねていた。
「今現在、在庫はないですね」
「どのお店にもなくてさぁ。明日までに欲しいんだけど、なんとかならない?」
「明日、ですか?」
「そう、明日。韓国にはめていきたいんだわ。明後日の朝一の飛行機だから明日中に欲しい」
「そう仰られましても、今日の明日でご用意できるかは何とも申し上げられません」
「なぁんとか、ならないかなぁ」
 声が掠れすぎて裏声になっている。
(韓国行くのに、なぜデイトナの金無垢ダイヤが必要なのか?異国の「交渉相手」への威圧感か?)
「それでは各方面に当たりますので少しお時間を下さい」
 顧客の無理難題に応えるのも一つの醍醐味でもある。

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