著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

父という名の時代の圧力 『巨人の星』(全19巻) 梶原一騎原作 川崎のぼる作画

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『巨人の星』(全19巻) 梶原一騎原作 川崎のぼる作画

 
★あらすじ
 かつて巨人軍の三塁手だった星一徹の息子として育った星飛雄馬が、野球を通じて成長していく物語である。父の厳格な指導のもと幼少期から過酷な特訓を受け、巨人軍入団を目標に技術と精神を鍛え上げていく。やがて才能を認められ、投手として巨人に入団するが、強烈な投球フォームや魔球の習得は、肉体への大きな負担を伴う。ライバルである花形満や左門豊作との対決、度重なる故障や挫折を経て、飛雄馬は投手としての限界に直面する。野球に人生をかけた父と子の関係、勝利と犠牲が交錯する中で、飛雄馬は自らの進む道を選択していく。


 『巨人の星』という題名はいま見ると大仰にも思える。だが、当時は大仰くらいでなければ届かなかった。星にしないと、少年たちの目は上を向かなかった。敗戦の混乱から立ち上がり、高度経済成長で街が膨らみ、東京オリンピックの工事が昼夜で回り、固定相場の1ドル360円が崩れ、やがて石油ショックで空気が冷える。その長い上り坂と踊り場と失速のあいだに、この作品は走り続けた。長嶋入団からV9、そして『新巨人の星』の終端まで、社会の鼓動がそのままページに刷り込まれている。

 スポ根の元祖、とひとことで片づける言い方は便利だが、雑でもある。元祖というより、危険物の取扱説明書を付けずに火をつけた最初の作品だ。努力、根性、父と子、才能、犠牲。そういう駆動語を、整理せずに、緩衝材も挟まず、むき出しのまま投げてくる。読者の顔面にボールがガツンと当たる。魔送球である。

 星飛雄馬は、天才として置かれない。置かれないというより、置けない。父・星一徹が、それを許さない。一徹は元プロ野球選手で、肩を戦争で壊した。戦争は、作品の背景ではなく、父の骨格になっている。水原茂、川上哲治、星一徹。従軍を経験した男たちが、戦後の球界を動かす。シベリア抑留の強制労働の話や、沢村栄治ら戦没選手の逸話が、子ども向けのアニメのなかに平然と混ざる。飛雄馬は台湾の日本統治を「知らない世代」で、日本語が通じることに驚く側だ。世代の断層が、父子の断層としても響く。

 一徹の挫折は処理されない。昇華もしない。家庭という器にためられ、息子に注がれる。家は休息の場ではなく訓練場になる。教育ではない。移植である。夢の強制移植だ。長屋の狭い部屋で、畳の上がグラウンドになる。貧乏の描写は誇張がある。だが誇張が利く時代だった。テレビが高級品で、買った瞬間に長屋の住人が集まり、ブラウン管の前が共同体の核になる。明子がスイカを切り、汗を拭き、声が飛ぶ。これらすべて生活の延長であり、薄い布団の上の祈りでもある。

 そして大リーグボール養成ギプス。全身にバネ仕掛けの負荷を巻きつけ、生活時間のすべてを鍛錬に変える装置だ。いま見ると笑ってしまう造形だが、笑えるのは安全地帯にいるからだ。当時の読者は笑えない。体が壊れることが前提にある。努力は未来の保証ではなく、現在の消耗として描かれる。汗は美徳ではなく摩耗だ。ギプスを巻いたオズマが「イエッサー・ボス」と言いながらヘロヘロで振る。乾いたユーモアが挟まるが、そこで緩まない。笑いが出た瞬間に、次の負荷が来る。

 この作品が怖いのは、熱を調整しないところだ。後続のスポーツ漫画は、友情やチームプレーや爽やかさで温度を下げていく。『巨人の星』は下げない。努力が人間関係を歪め、体を削り、人格を尖らせていく過程を、そのまま通す。勝っても休めない。成功しても終わらない。勝利は通過点ではなく、次の拘束条件になる。勝ち続けなければ存在が揺らぐ構造の中に、少年を据え続ける。

 しかも舞台は、上昇期の日本だ。東京オリンピック前の交通整備で、一徹のような日雇い労務者の仕事が増える。昼夜兼行の超人的な働きが、テレビ購入や青雲高校入学を可能にする。五輪景気の建設ラッシュ。インフラ整備。再開発。長屋は取り壊される。ここが残酷だ。努力で得た家が、時代の努力で消される。社会の成功が、個人の生活を踏み潰して進む。作中の「昭和元禄」という言葉は軽いが、軽い言葉の下で、街は重機に削られている。

 移動の描写も時代のにおいがする。海外へ出る場面は羽田空港だ。建物から徒歩で飛行機へ向かい、タラップを上がる。DC—8と思しきナローボディーの胴体が、湿った風のなかで鈍く光る。いまの空港のような密閉された動線ではない。外気を吸う。プロ野球が「国民的」になっていく途中で、海外がまだ遠い。だが遠いものが近づき始める。台湾キャンプの爆竹に驚く選手がいて、監督が説明する。国交回復前の空気が、そのまま残る。

 球界の固有名詞も、この作品の背骨だ。サンケイアトムズ。大洋ホエールズ。東映フライヤーズ。南海ホークス。阪急ブレーブス。近鉄バファローズ。すでに消えた看板が並ぶ。阪急は何度も日本シリーズに出てきて、上田監督や西本監督など、名が出るだけで時代が立つ。東映の胸文字が「FLYARS」になっている誤記まで含めて、当時の制作現場の荒さが見える。そこに妙に現実がある。

 大リーグボールも、魔法ではない。仕組みはいつも「手順」だ。1号はバットを狙う。50円玉を揺らし、エンドグリップの小ささへ制球を合わせる。2号は土ぼこりの保護色で消える。3号は超スローボールがスイングの風圧で浮沈する。理屈を付ける。反則ではないと説明する。ここが梶原一騎の天才性ある。ウソをつくなら、最後まで理屈をつける。少年に「信じるための理由」を与える。

 ただし、その理屈の先にあるのは、いつも破滅だ。3号は短期間で完成するが、左腕の崩壊という犠牲を払う。魔球は研究され、封じられる。オズマは打って勝つが、ベトナム戦争の傷で死ぬ。世界史の項目がスポ根漫画の脇から刺さってくる。月面着陸に飛雄馬が挑戦精神を重ねる一方で、地上では黒い霧事件が進み、球界も社会も濁る。「次はピンクの霧か」という下品な冗談が出るが、冗談の裏に、時代の不穏が見える。

 そして一徹だ。暴力的で、頑迷で、古い。だが単純な悪役ではない。彼自身が時代から振り落とされた存在で、夢を失い、役割を失い、居場所を失った男だ。復興と成長のために、個人の安らぎが後回しにされた時代。感情より成果が優先された時代。その圧力が、この父親の背中に集約されている。野球の鬼というより、時代の鬼だ。

 生活の小道具も、いちいち痛い。固定電話がない。球場へ連絡するためにラーメン屋へ走る。間に合わず左門豊作に打たれる。遠征先から寿司を注文して「折り返し電話」を頼む。10円玉を何枚入れたかは分からないが、長電話は10円玉の重さになる。のちにマンションへ移って「自宅に電話のある生活」になると、それだけで階級が変わる。いま読むと些細だが、当時は生存の差だ。

 だから、子どもたちは熱狂した。魔球。背番号。ライバル。テレビの前の声援。だが熱狂の芯は憧れだけではない。読者は無意識に刷り込まれる。勝つことには代償がある。期待に応え続けることは消耗だ。歓声の裏に沈黙が積もる。そういう「社会の作法」を、少年漫画の形で教えられる。

 重要なのは、成功を美談で閉じないことだ。飛雄馬は最後まで「勝てば救われる」場所に到達しない。技は封じられ、体は壊れ、野球人生は短い。努力の否定ではない。努力は万能ではないという事実の提示だ。根性は奇跡の鍵ではなく、限界まで歩くための燃料にすぎない。

 この作品は、夢を与えた。同時に、夢が人を壊す場面を隠さなかった。だから後続は、ここから出発しながら距離を取った。熱狂だけでは持たないことを知ったからだ。ページを閉じたあとに残るのは歓声ではない。投げ終えた肩の静かな痛みだ。そこに父の沈黙も混ざっている。
(講談社 kindle版 594円~)

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