英雄にならなかった男の物語 『シュマリ』(全4巻) 手塚治虫作
『シュマリ』(全4巻) 手塚治虫作
★あらすじ
幕末から明治初期の北海道を舞台に、元新選組隊士・シュマリが、国家や思想から距離を取りながら生き抜こうとする物語である。倒幕と維新の波にのみ込まれ、多くの仲間が信念の名の下に命を落とす中で、シュマリはどの旗にも与せず、個として生きる道を選ぶ。狩猟で糧を得、自然と向き合い、時に人と交わりながらも、彼は権力や理想に身を委ねない。自由とは何か、生き延びるとはどういうことか。英雄にならなかった男の姿を通して、歴史の陰に追いやられた「選ばなかった生」を静かに描いた異色の時代漫画。
手塚治虫の作品群のなかでこの『シュマリ』は異様だ。三つ目のような超能力者も出てこない。あるのは明治初年の北海道、石狩の湿地、幌内の炭塵、余市川の濁流、そして氷点下20度の夜だ。虫プロ倒産の翌年、『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』とともに復活をかけ、命がけで描かれたこの連載は、娯楽の衣を着ながら、娯楽を拒む。読者の足場を、最初から凍土に置く。
主人公シュマリ。江戸では旗本。名は捨てられ、アイヌの長老クーチンコロに「狐(シュマリ)」の名を与えられる。右手には包帯。出せば人を殺す手だという。理念を語らない。旗を掲げない。だが倒れている者を見捨てない。イメカノを抱き、狼に裂かれた女を腕に受け止め、囚人労働の炭鉱でも、吹雪の原でも、目の前の1人を優先する。博愛ではない。理屈より先に体が動く直情的な男だ。
この物語は勧善懲悪を拒む。太財弥十は残虐だ。コレラの村を焼く。だが彼もまた、幌内炭鉱を動かす現実の歯車だ。弥七は狡猾で、北海道の半分を王国にする野心を抱く。だが同時に、シュマリと奇妙な連帯を持つ。敵か味方かで切れない。峯は女傑で、小作人を猟銃で撃つ。だが同じ手でポン・ションを育て、弥三郎を産む。お妙は裏切りと献身のあいだで揺れ、華本は教養と錯乱のあいだで崩れる。人物は単色にならない。吹雪のなかでは、善悪よりも体温が先に問われる。
国家は信用されない。開拓の理想は美名だが、現場では圧迫だ。薩摩閥の堀基。北海道炭礦鉄道。北有社。空知集治監。制度の名札が並ぶが、氷点下の一夜を越える装置にはならない。石川幌内熊尻、1875年太財炭鉱会社設立、76年厳冬。年号と地名が重く落ちる。史実との齟齬もある。だがそれは誤りではない。歴史の正確さより、生存の手触りを優先しているからだ。
シュマリは暴力を使う。撃つ。斬る。ためらいは少ない。だが大義名分を張らない。守るために殴る。生きるために撃つ。暴力が思想から出ていない。そこに奇妙な信頼が生まれる。十兵衛--天然理心流の剣豪、南無阿弥陀仏と唱えながら斬る男--が土方歳三をサジェストされても、正体は確定しない。歴史の英雄を借りて威光をつけない。否定し続ける。その曖昧さが、むしろ本気だ。
物語が配分の問題を内包しながら進むのも面白い。砂金を誰に回すか。食料をどう分けるか。坑道の出口へ誰を先に出すか。なつめは命綱を切り、山津波にのまれる。吉兵衛は胸をいなごに食い破られ、安楽死を選ぶ。みだれ髪は乱闘のなかで死ぬ。救済の保証はない。助けた者が必ず報われるわけではない。それでも同じ手順を繰り返す。火を絶やさない。荷を分ける。夜を越える。この反復が背骨だ。
ポン・ション。アイヌの子。名は「小さなウンコ」。病魔に嫌われるための仮名だ。彼は札幌農学校へ進み、日清戦争に征く。大陸でシュマリの影と再会する。ここで物語は、北海道の凍土から帝国の戦場へ接続する。個人の倫理が国家の戦争と交差する。だがシュマリは変わらない。理念に吸い上げられない。個人の即断を手放さない。
お妙は射殺され、華本は収監され、弥七は暴動のさなかに心臓を止める。峯は生き残り、子を育てる。生き延びた者が正しいわけではない。残ったという事実だけがある。ここに甘さはない。ロマンと呼ぶにはあまりに寒い。
この作品は重い。思想が重いのではない。生存が重い。氷点下の夜をどう越えるかという具体が重い。抽象語は出てこない。「人道」も「共生」も掲げない。地名、年号、銃名、炭鉱名。数字と固有名詞が、倫理の代わりに置かれる。だから信用できる。
読後に残るのは、英雄の喝采ではない。雪原を歩く背中だ。包帯を巻いた右手。狐と呼ばれた男の輪郭。彼は吹雪の向こうでまだ歩き続けている。読者にずっとそう思わせてくれる作品である。
(手塚プロダクション kindle版 297円~)



















