「『桐島です』」が突きつける企業連続爆破犯人の「歴史の空白」
桐島の逃亡劇は一本芯が通っているような気がする
劇中、いかにも反体制派の活動家と思わせる場面がある。ひとつは自動車運転免許の学科試験に関する裏読みだ。試験に引っかけ問題が多いのは、引っかけ問題対策を教える教習所のためなのだと桐島は指摘する。国のメタボ対策もしかり。製薬会社と国がつるんでいるから、わざわざ健診を受ける必要はないと見抜くのだ。
こうした桐島の深読みに、彼の周辺にいる国家に従順な人たちはいちいち感心して頷く。若いころに国家を疑った桐島はその後も“まつろわぬ民”として生きた。見ていて痛快だ。
もうひとつある。差別発言をする者の言動に怒りを禁じ得ないことだ。革命を目指した活動家は何歳になっても正義感を失わない。そういう意味で彼は死ぬまで革命家だったと言えようか。安保法制について語る安倍晋三を見る際の反応も興味深いものがある。
人が逃げ回る話は面白いものだ。筆者が子供の頃はテレビで米国のドラマ「逃亡者」が放送されていた。医師のリチャード・キンブルが無実の罪で追われ、毎回捕まりそうになりながらも逃げおおせる。そのハラハラドキドキに胸が躍ったものだ。本作の桐島も同じ。淡々とした日々の中にもスリリングな出来事が起きる。
彼は自分が関与した爆破事件で怪我人を出したという罪悪感を抱いている。それでも警察に出頭することなく逃げ続け、最後は「私は桐島です」と明かして死を迎えた。
犯罪者を持ち上げるつもりはないが、桐島の逃亡劇は一本芯が通っているような気がする。殺人などの凶悪犯と違って、一種のロマンスさえ感じてしまう。3億円事件(1968年)の犯人が放つ神秘性と同じものだろうか。
50年間、桐島は何を考え、どのような人間ドラマに直面したのか。誰もが知りたがることを明かさず、彼は命を閉じた。こうした疑問に答え、謎に満ちた歴史の空白を埋めてくれるがこの「『桐島です』」なのだ。(配給:渋谷プロダクション)
(文=森田健司)