小早川秀秋(1)豊臣秀吉の甥 名門・小早川家の養子に
源平合戦に登場する土肥実平は、西相模の湯河原・真鶴あたりを領有した有力武士で、鎌倉幕府創業の功臣でした。早川荘も彼の所領で、長男の遠平が受け継ぎました。ならば「早川遠平」でよいはずです。
ここからは私の仮説(機会があれば詳述します)ですが、1193年の曽我兄弟の敵討ちは、北条時政によるクーデターだったのではないか。実平はこれに加担して失脚し、相模の本領を失った。そのため遠平は中国地方へ拠点を移し、土肥の家名を捨て、世をはばかる、あるいは謹慎の意味を込めて「早川」に「小」をつけ、「小早川」を名乗ったのではないでしょうか。
武士の家名について、もう一つ面白い例があります。上杉景勝の重臣・直江兼続の弟は、由緒ある小国氏に迎えられると、「小」より「大」の方がよかろうと家名を大国に改め、大国実頼と名乗りました。武士は必ずしも謙遜を美徳とはしません。むしろ自分を大きく見せたがる。その感覚からすると、わざわざ「小早川」と名乗ったことには、何か特別な事情があったのではないか、と考えたくなります。
小早川氏が移ったのは安芸国沼田荘です。「ぬた」と読み、現在の広島県三原市にあたります。海に面した豊かな荘園で、鎌倉・室町時代を通じて栄えました。室町幕府では将軍直属の奉公衆に属し、しかも全国の奉公衆の中でも有力だった(たしか三河の中条氏と中国地方の庄氏に次いで3番目)ことが知られています。
つまり小早川家は、決して毛利家より格下の家ではありませんでした。室町幕府の中央政治ともつながる、相当な格式を備えた家だったということです。この点は、秀秋を考えるうえでも重要です。


















