オフィス内装“なんちゃって社長”七転び八起き奮闘記<前編>
エス・ビルド 代表取締役 澤口貴一さん(前編)
オフィス専門の内装工事会社として、創業以来17期連続増収を達成。このコロナ禍でも11月の売り上げは前年同月比の倍近く。まさに勢いに乗っている会社のトップだ。
業界では珍しい営業アシスタント制や資材専用の自社運送便を導入。手間のかかる材料計算ソフトを独自に開発するなど、画期的なアイデアや攻めの戦略でも注目を集めるが、駆け出しの頃は波乱の連続だった。
長野県塩尻市生まれ。衣料品店を営む両親のもとで育ち、高校卒業後は京都産業大学に入学。新卒でオービックグループのオービックオフィスオートメーションに入社。全社員2000人中わずか20人の弱小部署「オフィスデザイン課」に配属される。
「本来は業務用のシステムやOA機器の販売を行う会社ですが、その課はオフィスの内装工事などを請け負う、コンピューターとは無縁の部署。理由は分かっています。入社試験で、僕が一番パソコン下手だったからです(笑い)」
いわく、「最もハードな部署」。というのもオフィスの工事は土日にあるので、必然的に休日出勤が増えるから。
「同じ新卒の同期の1・3倍の時間は働きました」
それでもめげずに仕事に励んだ。初年度から営業目標達成率435%という驚異的な数字を叩き出し、新人ではもちろん、全社員の中でもトップを争う営業マンに。
「内装業と相性が良かったんだと思います。母方の祖父が土木業、父方の祖父が営林業でしたので、ものづくりには興味がありました」
スカウトされた先の“休眠会社”を1人で運営
このまま出世街道をまっしぐら――と思いきや、取引先社長の「次期社長に」という誘いに乗って転職。しかし、その会社が翌年、経営不振で倒産してしまう。
「原因はその社長の派手な生活ぶり。会社の金は自分の金と思うような人でした。今思えば結果は火を見るよりも明らかでしたが、当時、私はまだ24歳。社長にならないかと言われて、舞い上がってしまったんでしょうね」
入った会社は倒産したが、その社長は休眠会社を1つ持っていた。「金は用意するから、その会社の社長をやってくれ」と頼まれたので請け負うも、金は用意されることなく、「金はもうない」と居直られる始末。結局、前社長とは決別し、ひとりで会社を運営することになった。
「何の実績もないので、銀行や公的金融機関からは一切の融資が受けられず、家族や友人、当時の恋人、大学時代の恩師にまで運転資金を借りて、自転車操業の日々を送りました。しかも何の事業プランもなく、何ができるわけでもない。手探り状態とはまさにこのことでしたね」
自動施錠できる家庭用の錠前販売やパソコンの訪問販売などいろいろやった。パソコンは当時まだ高かったので、教育プログラムの助成金と抱き合わせで売ったが、「これが全然売れなくて。つくづく私は個人向けの商売に向いてないと思いましたね」。
次は2トン車を改造し、広告宣伝カーをつくって走らせようとした。しかし一向に広告主が見つからない。ハコはつくったけれど、というやつだ。残ったのは車の改造費の借金だけだった。
それらと同時にやっていたのがオフィスの内装工事。打って変わってこちらは儲かった。初年度だけで6500万円の売り上げ。これ一本でいこうと決めた。
ちなみにこの成功には「理由がある」という。
「オービック時代は、企業から請け負った内装工事を内装業者に卸す〈元請け〉でした。ひとりで会社を始めた時は、元請けから工事を請け負う〈1次下請け〉という立場。そこでオービック時代にはライバルだった会社に営業に行ったんです。昔は同じ仕事をしていたので、元請けが何を求めているのかがよく分かるからです。例えば見積もりを求められたら徹夜して翌日に出したり、どこよりも安い額を提示したり。そんな“最高のおもてなし”を続けた結果、少しずつ仕事が舞い込むようになっていきました」
そのうち社員も1人、2人と中途で入ってきて、ノウハウや人脈も加算されていった。気づけば社員7人、年商は2億円を突破。半ばだまされて始めた“なんちゃって社長”が、ついに本物の社長になったのだ。 =つづく
(聞き手=いからしひろき)
▽さわぐち・たかいち 1978年、長野県生まれ。京都産業大学卒業後、オービックオフィスオートメーション入社。1年目で目標達成率435%を叩き出し、社内指折りの営業マンに。2002年、取引先企業に転職するも倒産。03年、その企業が持っていた休眠会社を引き継ぎ大阪で起業。04年、エス・ビルドに社名変更し、オフィスの内装工事に特化。創業以来17期連続増収を果たし、年商は20億円を突破。19年にリリースした資材計算ソフト「建築の電卓」が国内で大手企業はじめ約170社で導入。2つの国内特許も取得済みで、人件費と資材ゴミ削減に効果的と評判。