ミサワホーム合併事件でトヨタの奥田碩をグサリと刺した三澤千代治
私が経済誌にいた1980年代からの知り合いの三澤千代治はミサワホームの創業者で、「履歴書に失敗欄がほしい」などというユニークな経営者だった。だからミサワホームは辛口と言われる私がほめる数少ない会社だったのだが、その三澤から憤慨した様子で電話がかかってきたのは2005年の春だった。トヨタに卑劣な方法で会社を乗っ取られたというのである。しかも、どこもそのことを書いてくれない。それで私が関わっていた『週刊金曜日』の同年4月15日号でインタビューした。同誌は広告のない雑誌なので、トヨタの影響力が及ばない。
その時点でミサワは120万戸を竣工していたが、トヨタホームは6万戸に過ぎなかった。
「トヨタホームの役員がトヨタホームに住んでいないんだもんなあ」と三澤は嘆いていた。それでトヨタはミサワの乗っ取りを図る。
1997年に東海銀行頭取の西垣覚に「三澤さん、トヨタホームと合併してくれ。私の顔を立ててくれ」と言われた。株式を50%トヨタに渡してほしい。それがダメなら業務提携してくれ、と頼む。
断ったら、2003年10月に当時、金融担当大臣だった竹中平蔵が設定して、経団連会長のトヨタの奥田碩に会わされた。経団連会長室でだが、そのころ竹中の兄がミサワホーム東京の社長で「平蔵がそこに行くと職務権限違反になるから行かない」と言う。平蔵からも「明日行ってください」と念押しの電話があった。そして、経団連会長室である。世間話の後で奥田が社名をトヨタホームにしてくれと言う。三澤は「60歳を過ぎて婿に行くような話は困ります」と否定する。それで険悪になった。気まずい沈黙があって、三澤は「奥田さんは1年に何人、人を殺しているんですか」と尋ねた。奥田は答えない。
トヨタの最高責任者が、交通事故で何人死んでいるかということに意識すらないとはひどいと、三澤は思ったという。
それで、「1万2000人の死者でトヨタは1兆円の利益をあげているんですよ」と迫った。
当時の世界の交通事故死亡者のうち1万2000人がトヨタ車のシェアに相応すると三澤は指摘したわけだ。
「夜にセンサーが働いて、障害物があるとブレーキがかかる装置があります。最高速度を抑えるスピードリミッターもある。しかし、トヨタの年間生産台数700万台に装置すればトヨタの利益はすっとんじゃう」とも言った。
奥田は「自動車産業を人殺し呼ばわりしやがって」と激怒したらしい。
その後、トヨタの圧力で銀行が、ミサワホームが支援して三澤が会長をしている環境建設への融資を打ち切る。
そしてミサワホームは産業再生機構に放り込まれた。三澤によれば、2004年12月に奥田が「ミサワを再生機構にやればいい」と発言し、その翌年の1月からマスコミは三澤のトヨタ批判を取り上げなくなった。電通のプロジェクトチームがマスコミを止めたのである。