日本赤軍事件を糾弾した欧米がIS戦闘員の帰還を拒む矛盾
1977年9月28日、パリ・シャルル・ド・ゴール国際航空発の日本航空472便は、カラチ(パキスタン)、ムンバイ(インド)、バンコク(タイ)を経由して羽田に向かっていた。ムンバイを離陸した直後に日本赤軍にハイジャックされ、バングラデシュ・ダッカの空港に強制着陸させられた。日本赤軍は乗員・乗客151人を人質にとり、600万ドル(当時のレートで16億2000万円)の身代金と、日本で服役・拘留中のメンバー9人の釈放を求め、応じない場合は人質を次々に殺害すると脅迫した。
日本の福田赳夫首相は、「人間の生命は地球より重い」と語り、日本赤軍の要求に応じ、身代金の支払いと、メンバーの釈放を行い、人質の大半はダッカで、その他の人たちもクウェート、シリア・ダマスカス、さらにアルジェリア・アルジェで解放されて人質は全員無事だった。しかし、日本赤軍の要求に応じたことは、日本は家電製品や自動車ばかりでなく、テロまでも輸出するのかという批判が欧米をはじめ国際社会からわき上がった。