<第3回>引退試合前の村山さんの肩慣らしの相手したんは俺よ
ザトペック投法で昭和37、39年の優勝に貢献した村山(実)さん。37年の投球回数を見ると57試合で366と3分の1イニングも投げている。今では信じられんわな。39年に優勝した時は、親父が心斎橋の中国料理店で祝勝会の2次会をやった。後に村山派とか吉田(義男)派なんて言われていた選手たちも、みんなワイワイやってたな。オレは末席にいたから覚えている。
村山さんは昭和48年3月21日に引退試合をやったけど、その数日前に肩慣らしの相手したんは俺よ。この年の村山さんは、もう試合には出ていなかった。肩もなまっていたはずや。村山さんは日本で初めてSSKというスポーツメーカーとアドバイザー契約を結んだ選手だった。このメーカーの社長さんは親父とも知り合いで、そんな関係から俺は3日間ぐらい村山さんとキャッチボールをやった。場所はSSK本社ビルの屋上だった。
2日目だったかな。
「傾斜のあるところで投げたい」って村山さんがいうから、天王寺にある真田山公園に連れて行った。そこには、俺が通っていた明星中学の野球部が練習していた球場があったからだ。中学の使用球は準硬式やったし、村山さんのキャッチボールの相手ぐらいはできた。