“元祖アイドル球児”太田幸司さんが思い起こす三沢vs松山商…満身創痍だった決勝再試合前夜
肩は焼けたように熱く、はしが重くて持ちあがらない…
さあ、夏の甲子園大会が始まったね。今年はどんなドラマが生まれ、どんなヒーローが現れるか。楽しみで仕方がないが、この時期になると改めて56年前の夏を思い出すよね。
「もう、いい。両校とも勝者だ」「優勝旗を2つ作ってやってくれ」。決勝戦の延長18回も、引き分け再試合も史上初。0-0の試合後は大会本部にそんな電話が殺到したらしいが、松山商を相手に262球を投げたボクの体はボロボロだった。
宿舎の夕食では右腕がしびれ、はしが重くて持ち上がらない。アイシングなど言語道断の時代。いつものように母親が編んでくれた毛糸の肩当てを巻いて寝ると、まるで焼けたように熱くなった。たまらず風呂場で水をかけても、ほてりは全く治まらない。朝に目が覚めると、4時間以上も投げ続けてマッサージも受けていないのだから体中がバッリバリ。はいずりながら起き、洗面所では歯ブラシが口に届かない。「あわわ。こんな状態じゃ……」と顔面蒼白になった。案の定、ボクは9回4失点を喫し、三沢高は再試合に敗れた。
■「コーちゃんフィーバー」が当時は嫌だったけど、今はホント感謝しています
そしてグラウンド外では、とんでもない事態になっていた。快進撃を続ける準々決勝あたりから、ボクはカメラやサイン帳を手にする女子中高生たちにもみくちゃにされた。帰宿するとボクだけ外出禁止。それでも宿舎の垣根を乗り越えて侵入するファンが出現するなど、何が起こっても不思議ではない大フィーバーが巻き起こったのだ。青森の田舎者だから、戸惑うしかなかったよ。
実はこの取材で、同世代の女性とお会いできるという話だった。甲子園球場の近くに住み、少女時代はキャッチャーマスクをかぶってソフトボールに打ち込んだとか。母親の買った野球雑誌をめくり、ボクの特集記事を興味深く読んでくれていたらしい。あいにくその方が体調を崩してお目にかかれなかったけど、当時の話に花を咲かせたかったなぁ。今も三沢高時代のボクを覚えていてくれる人がいるなんて、ホントうれしいよね。
「コーちゃんフィーバー」か。懐かしいな。人気先行と揶揄されたプロの若手時代は、甲子園大会の話をされるのが嫌だった。でも、今は素直に言える。「今の自分があるのは甲子園のおかげ。延長18回引き分け再試合のおかげです」と──。
(構成=長浜喜一)
▽太田幸司(おおた・こうじ) 1952年生まれ、青森県三沢市出身。69年夏の甲子園大会決勝で愛媛・松山商と死闘を演じ、空前のブームを巻き起こす。同年のドラフトで近鉄に1位入団し、巨人、阪神に移籍後84年に引退。通算58勝85敗4セーブ。家族は妻と2男1女。