町野修斗〈前編〉想定外の珍プレーで一発退場「ホントに宇宙人なんです」(履正社高監督・平野直樹)
急逝した恩師への恩返し
──1年の町野選手のエピソードは?
「忘れられないのが、15年の高円宮杯プレミアリーグ・ウエストの最終節・大分U-18戦でのレッドカードですね。その年は京都橘の降格がいち早く決まり、ウチも下位だったけど、得失点差で大丈夫だろうと思って最終節を迎えました。ところが、ウチと残留を争っていた名古屋U-18が京都橘に前半6-0でリードしているという情報が入ってきて、勝ちにいく必要性が出てきた。そこで一発に期待して後半途中から町野を送り出しました。ところが、スローインをゆっくりやろうとした相手選手のところに歩み寄り、コツンと足を出してしまって一発退場となった。僕自身、何が起きたのか分からず、『なんでそんなことするの』と目が点になった。ホントに町野は宇宙人なんです(苦笑)。結局、試合は0-0に終わってプリンスリーグへの降格が決まった。帰りのフェリーはお通夜状態でしたね」
──その年は高校選手権も逃したんですね?
「はい。良いメンバーが揃っていたので選手権優勝を目指していたんですが、阪南大高に負けてしまった。気の強い大地が翌日、『先生、今日だけは休ませてください』と言ってきたくらいショックが大きく、その分プレミアリーグに賭けていたところがあったんです。それが最終節で町野が退場して降格というのは本当に残念だった。本人も先輩に申し訳ないという気持ちでいっぱいだったはずです」
──その後、本人は奮起したでしょうね。
「直後の12~1月にかけて、僕がガンバ大阪ユース時代に教えていた大黒将志(奈良監督)が連日来てくれて、町野にFWとしての動き方やシュートのタイミングなどをアドバイスしてくれました。2006年ドイツW杯に出た元日本代表FWから直々に教えてもらえたことで、町野も学びが多かったと思います。もうひとつ、高2になるに当たって大きかったのは、FCアヴェニーダソル時代の関本(恒一)監督が亡くなったことです。彼は僕の四日市中央工高時代の後輩で、鳥栖でプロをやっていた人間なんですけど、町野に手をあげたことがあったらしく、履正社入学後も時々試合を見に来てくれていました。その彼が16年1月に病気で急逝し、葬儀会場で町野と会った時に『関本が必ず見ているから頑張らないといけないよな』と声をかけました。修斗もじっと聞いていましたが、『プロになって恩返ししたい』と強い決意を抱いたはずです。そのあたりから自覚が芽生えたのかな、と思います」
【後編】につづく
(聞き手=元川悦子/サッカージャーナリスト、絹見誠司/日刊ゲンダイ)
▽まちの・しゅうと 1999年9月30日生まれ、27歳。三重・伊賀市出身。地元クラブのFCアヴェニーダソルから大阪・履正社に進学。卒業後にJ1の横浜M入り。19年J3の北九州でクラブ初のJ2昇格に貢献。21年にJ1・湘南に完全移籍。22年に13ゴールを決めてJ1得点ランク2位(日本人選手単独首位)。23年6月にドイツ2部キールに移籍し、同クラブの1部初昇格の原動力となった。25年7月、1部の古豪ボルシアMGに4年契約で引き抜かれた。22年7月に日本代表初招集。同年東アジアE-1選手権で代表デビュー。22年W杯カタール大会に追加招集されたが、出場機会なしに終わった。
▽ひらの・なおき 1965年11月2日生まれ、61歳。三重県出身。四日市中央工高3年次に高校総体優勝。冬の全国サッカー選手権ベスト4。元ユース日本代表。順天堂大卒業後にJSL松下電器(現Jガンバ大阪)入り。プロ化によってガンバ大阪に移行した92年限りで現役引退。ガンバ、仙台でユース監督など歴任後、03年に履正社高サッカー部創設と同時に監督に就任した。18年には日本高校選抜の監督としてドイツで開催された国際ユース大会でチームを優勝に導いた。



















