私の流され続けた半世紀 野球との出会い、指導者になった経緯を赤裸々に語る
今夏の甲子園をテレビで眺めながら、ふと気づきました。40歳になる頃まで、私は夏の甲子園を見るのが嫌だったんです。自分のチームはとっくに県大会で敗退している。「早く大会が終わってくれ」「絶対に見るものか」と思いながらも、やはり試合の行方は気になります。複雑な胸中で観戦していました。それが今では、ずいぶんと気持ちの切り替えが上手になったものです。
そんな昔を振り返っているうちに、これだけコラムを重ねながら、そもそも私が高校野球に携わるようになった経緯を書いていなかったことを思い出しました。今回は、その話をさせてください。
物心が付いた頃から、野球は身近な存在でした。昔はほかに遊びらしい遊びもありませんから、近所の子たちと毎日のように神社の境内で球を追いかけていました。小学校高学年でソフトボールのチームに入ったのは、遊び仲間で幼なじみの斉藤に誘われたのがきっかけです。彼とはその後も深い縁が続くので、ここでは名前を出すことにします。
一緒に進んだ藤代中でも、斉藤に連れられるように野球部へ入りました。当時の部員は、私と彼を含め、ほとんどが竜ケ崎一高へ進学。しかし、私は高校でも野球を続けるかどうか迷っていたんです。その時も、斉藤から熱心に誘われたように記憶しています。
私は流されやすいところがあるというか、結局、そのまま野球部に入りました。当時は茨城と千葉を合わせて、甲子園への出場枠はわずか1校。しかも、千葉の高校野球が全盛期を迎えていましたから、私たちは甲子園を目指せるような立場ではありませんでした。
ところが、中学に続いて主将を務めた斉藤のリーダーシップに引っ張られ、まさかの甲子園出場を果たしたのです(1966年夏)。私は二塁手として聖地の土を踏んだものの、あまりにも思いがけない出来事だったからか、「やり遂げた」という達成感は大してなく、当時の印象もほとんど残っていないんですよ。
高校卒業後、斉藤は東京六大学へ、私は国学院大へ進みました。上京して過ごした大学時代、転機が訪れたのは3年の冬です。これといった夢や目標はなく、就職についてもぼんやりとしか考えていませんでした。まだ米国統治下にあった沖縄の新聞社の方とご縁があり、「沖縄で記者として働くのも楽しそうだな」と、うっすら思い描いていた程度です。
そんな折、竜ケ崎一高の恩師である菅原監督から、「こっちを手伝ってくれないか」と声をかけられた。時代が時代ですから、監督の言うことは絶対です。引き受けるかどうか、迷う余地すらなかったような気がします。
菅原監督はいわゆる「職業監督」でした。一方、これから公立校で野球に携わるのなら、教員免許を持っていた方がいい--。周囲からそう助言され、大学4年になって慌てて必要な科目を履修し始めました。夕方になると渋谷のキャンパスから電車で竜ケ崎一高へ向かい、野球部の指導を手伝う。卒業後も1年間、聴講生として大学に通いながら、同じような生活を続けました。
そうして晴れて教員免許を取得し、茨城県の教員採用試験を経て竜ケ崎一高に赴任。引き続きコーチとして菅原監督を支え、27歳になる年に監督のバトンを渡されました。
自分から望んで、この道を歩もうとしたことは一度もありません。周囲に導かれ、流され続けて半世紀余り。いや、ソフトボールを始めた時から考えると……。数え切れないほどの思い出がありますが、振り返ってみると、うれしさや悔しさ以上に、「どうしてこうなったのだろう」という不思議さが一番大きいです。
一方、斉藤とはその後どうなったか? 別々の大学に進んでから今日に至るまで、しょっちゅう顔を合わせています。



















