近藤真一は高卒1年目から全身真っ白なスーツ、頭はパンチパーマ…当時は羨ましくて仕方がなかった
愛工大名電時代、「愛知県の壁」として立ちはだかっていたのが、享栄の近藤真一(のちに真市=現・岐阜聖徳学園大学野球部監督)だった。
1年生の頃からズバぬけていて、1984年秋はコールド負け。2年の夏、県大会準々決勝では延長戦の末に勝ったものの、秋季大会ではまったく歯が立たなかった。なんと九回2死まで無安打に抑えられた。激怒した中村豪監督がベンチでこう叫んだ。
「おまえら、このままノーヒットノーランやられたら、ここから寮まで走って帰れ!」
試合をしていたのは豊橋市民球場。名電の選手寮は春日井にある。豊橋球場から春日井の寮までの距離は約85キロ。高速道路を利用しても1時間半近くかかる距離だ。万が一走って帰るとなると、9時間以上はかかる。
「ノーノーだけはアカン……」
すぐさま円陣を組み、「負けてもいいから、どうやってでもいいから点取るぞ!」と号令。普段は主将らしいことはなんもせんかったけど、こんなときだけキャプテンシーを発揮した。
チームメートも走って帰ることだけは避けたいと一致団結。松久保新吾(87年ドラフト4位で近鉄に入団)が2ストライクに追い込まれながら二塁打を打つと、俺がヒットでつなぎ、結果的に2点をもぎ取った。結局、試合は2対5で負けたものの、「助かった……」と心から安堵した。
86年は享栄が春夏連続で甲子園出場。夏は真一が1回戦から完封劇を見せ、地元のスターから全国区になっていった(3回戦で高知商に敗退)。
一方、名電は東邦に完封負けで5回戦敗退。享栄の甲子園での試合は正直、「負けろ」と思いながら見ていた。
86年のドラフト会議は前年の桑田真澄さんと清原和博さんのドラフトと比較されたことから、「不作の年」と言われた。ドラ1候補は大学生の亜細亜大の阿波野秀幸さんと愛工大の西崎幸広さんの二枚看板。真一は高校生で数少ない「金の卵」として注目されていた。
結果、真一は5球団から1位指名。星野仙一監督が当たりくじを引き当てて中日に入団した。そのとき2位で入ったのが俺。まさか高校時代の最大のライバルと同じ球団に入るとは思いもしなかった。
その真一は87年8月9日、プロ初登板でノーヒットノーランという偉業を達成。俺は米国留学中にその知らせを聞いた。
当時はインターネットなんてない。「へえ! 二軍戦で?」とのんきに反応すると、「バカヤロー!一軍だよ! しかも巨人戦だぞ!」と一喝された。一軍、しかも巨人戦で達成したと聞いたときは「終わったな」と悟った。
すごく落ち込んだ。
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