料理ではなく生活 『クッキングパパ』(既刊176巻) うえやまとち作
『クッキングパパ』(既刊176巻) うえやまとち作
★あらすじ
九州の商社に勤める会社員・荒岩一味が、家庭では料理を一手に引き受ける父親として日常を送る姿を描いた漫画である。仕事に追われ、家事や育児が軽視されがちだった時代に、荒岩は特別な理想を掲げることなく、ただ必要だから台所に立つ。失敗し、空回りしながらも、食卓を途切れさせない。その姿勢は、料理を通じて家族や職場の人間関係を静かに結び直していく。派手な事件は起きないが、働くこと、暮らすこと、父であることを同じ地平で描き続けた、生活の重みを持つ長編作品。
料理漫画の顔をしているが、実態は生活の記録だ。大きな事件が起きないことを作品の骨格にしている。作者のうえやまは「おいしいものを食べて少し幸せになって、おしまい。それでいいじゃない」と言ったという。そうなのだ。鍋が鳴り、湯気が立ち、家族の声が飛ぶ。そこで終わる。それだけで、人は翌朝の会社に行ける。
主人公の荒岩一味は、福岡・博多の商社「金丸産業」の営業マンで、同時にプロ級の料理人だ。巨体で、顎がでかい。顔がいかついせいで、幼児が泣く。本人がいちばん困っている。だが台所に立つと、包丁の音が変わる。切る。洗う。拭く。火を入れる。皿を温める。出す。食わせる。手順がきれいだ。この家庭の手順が、そのまま職場の手順にもつながっている。怒鳴る上司であり、怒鳴ったあとに必ずフォローする人間でもある。強い者が優しい、というより、優しさを手続きとして持っている男だ。
この作品の珍しさは、料理勝負が原則ない点にある。勝つための料理ではない。負けないための生活の料理だ。しかも工程をドラマに埋め込むのではなく、一話のあとにレシピを独立させ、絵入りで置く。物語は人生の断片、レシピは台所の設計図。分けることで、かえって混ざる。読者は泣いた直後に、分量と火加減を読む。涙が乾かないまま塩を測る。これは強い。
作中の料理はすべて作者が実際に作って味を確かめてから描いているという。ここが、地味に恐ろしい。漫画家の「取材」は、多くが言い訳になる。だがこの作品では、取材が台所に落ちている。うえやまの仕事場では、料理を作ること、そしてアシスタントが試食して批評することまでが制作の一部だという。漫画の背後に、鍋と皿洗いがある。インクの匂いに、たまねぎの甘い匂いが混ざる。そういう現場感が、作品の体温になる。
初期は「男が料理をする恥ずかしさ」が物語の仕掛けだった。一味は会社で料理を隠し、部下に振る舞うときも「買ってきた」「うちのやつが」と咳払いして誤魔化す。時代がそうだった。だが連載が10年を越えたころ社会が変わり、作中も変わる。隠し通すことが不可能になり、51巻で料理人・荒岩が公表される。路線転換は、思想の勝利というより、生活の勝利だ。男が料理をすることの説明が要らなくなったとき、この漫画は「説明」を脱いで、「日々」だけになった。
舞台は福岡市の繁華街「博多」だが、風景の一コマ目は、天神や百道でも平然と「博多」になる。厳密さは捨て、気配を取る。地名は花椎、函崎、大妙と少しだけずらされる。現実はそのままでは硬すぎるからだ。だが完全な嘘にもならない。ソフトバンクホークスの帽子、モデルになった新聞社、出張先の実在店や祭り。福岡周辺の鉄道・道路・店の描写が細かいのは、土地の人間が「ここだ」と膝を打つためであり、外の人間が「行ってみたい」と思うためだ。料理漫画でありながら、地方のガイドでもある。
巻が進むにつれ、明るかっただけの作品世界に、産後うつや不登校など小さな出来事がときおり顔をのぞかせるようになる。やがて物語全体の奥行きが増し、深みも増してくる。虹子が育児休業で仕事ができず、夜泣きに削られ、家の外から流れてきたピアノの音に救われる話を「終了前に描いておきたい」と作者が思ったというのは覚悟の告白だ。幸福だけを描くなら、料理は装飾で済む。だが暗部を描くとき、料理は命綱になる。食べる。体が熱を取り戻す。それだけで、人はもう一回だけ踏ん張れる。
結局この作品は、「家庭的な企業」や「温かい絆」を売っているのではない。もっと露骨だ。人間関係は冷える。仕事は荒れる。子供は泣く。体は弱る。だから火を付ける。鍋をかける。湯気で部屋を満たす。誰かの皿を先に置く。そうやって、今日を終わらせる。それでいいじゃない、ではない。それしかできない夜がある。それでも「これが人生さ」と笑い合いたい。作者のそんな気持ちが込められた作品だ。
(講談社 kindle版 792円~)


















