六角精児さんとギャンブル哲学「醍醐味は『勝ち味』より『負け味』」だと思う
世の中はエネルギーのキャッチボールで成り立っている
僕は仕事であれ日常であれ、人とのエネルギーのやりとりが好きです。たとえば舞台や映像で何かの役を演じている人がセリフを言ったりしているのは誰かに、相手役や観客にエネルギーを与えているのだと思います。そして、エネルギーをもらった人が自分のエネルギーを誰かに届ける。世の中もそういうエネルギーのキャッチボールで成り立っていると思う。
だけど、中にはほとんどエネルギーを発しない人がいる。自意識が邪魔をしているのか、そもそも何かを伝えようとすること自体、無意味だと思っているのか……。年を取るとそういう人の存在が妙に気になりだしました。
これはあくまでも持論ですが、我々昭和の人と平成を生きてきた人は違うなと思うことがあります。生きるシステムや生活の違いが理由なのか、平成の人は理路整然として隙がなく、無駄なく生きている傾向。一方、我々は余分なことをやって生きている。むしろ無駄が多過ぎる。けど、隙なく無駄なく生きている人のエネルギーは、あんまり血肉となってこちらに伝わってこない。正直、「つまらんな」と思ってしまうことが多い。
なぜなのか。それは人間の魅力や豊かさの「花」は「無駄」という土壌に咲くからではないのか? 人生の寄り道回り道は余計なことなのかもしれない。でも、自分の人生をものすごく美化して言わせてもらえば、僕が今こうしていることができるのはギャンブルにハマったり借金をしたり、おおむねそういう無駄なことばかりをやってきたからなのです。時に非常に間違った方向に行ってしまったこともありましたが、それが自分の今の力になっている。そしてその経験をこうしてお話しし、聞いてもらうことで、今度は僕が誰かに力を与えることになるんじゃないか。その意味で無駄がなく生きてきた人はあとから困るんじゃないのかな。短いスパンで成功体験だけを求めて生き続けても、あとから振り返ってみたら、何も残らず、たいしたことないと思いますよ。それに紆余曲折があった方が人にやさしくなれますからね。
僕はこれまで本当にいろんな人に怒られてきました。人のために怒るのはエネルギーがいること。昔は怒られるのは嫌だったけど、今はありがたいと思っています。まず母親。子供の頃は毎日怒られた。勉強しない、テストの点数が悪いと怒られ、一度なんか米の炊き方が軟らかすぎると文句を言ったら、硬い米が好きな人間は頭が悪いと怒られた。もうメチャクチャでした。
その母親が今は施設に入っています。もう記憶が曖昧で。会うとニコニコ笑っている。でも、それがなんか腹がたち、昔みたいに俺に毒づけよと思ったりします。
ずっと一緒に劇団「扉座」をやっている横内謙介は初期の頃は僕のことを一生懸命怒ってくれた。稽古していて、そうじゃない、もう1回やれって、何度も何度も。たった2、3分のシーンなのに一日中怒られたこともあった。そんな経験をして舞台に立てた時、初めて見えない壁を乗り越えられた気がした。まぁ壁はその後もたくさんあるんですけどね(笑)。