著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

犬の顔になる奇病に冒された医師の苦悩 『きりひと賛歌』(全4巻) 手塚治虫作

公開日: 更新日:

『きりひと賛歌』(全4巻) 手塚治虫作 

★あらすじ
 若き医師・小山内桐人は、原因不明の奇病「モンモウ病」を追う過程で、自らもまたその病に侵されていく。体が次第に人ならざる姿へと変わるにつれ、彼は医学界の権威、あからさまな差別、そして倫理が崩れていく現実に直面する。人間として扱われなくなったとき、人はどこまで人間でいられるのか。治療と救済を信じ続ける医師の視点から、文明と人間性の限界を鋭く照らし出す、過酷で思想性の高い医療漫画である。


 手塚治虫後期思想を読み解くうえで避けて通れない作品である。この時期の手塚は、もはや「生命礼賛の作家」ではない。人間を信じたいという欲望と、人間社会への深い不信が、同時に存在している。その緊張が最もあらわになったのが、この作品だ。

 前期の手塚作品には、どれほど悲惨な状況であっても、最終的には人間性が回復されるという構造があった。善意は裏切られても、理性は残る。文明は崩れても、希望はつながる。しかし『きりひと讃歌』では、その前提が崩される。人間は理性によって救われない。制度によってこそ、最も冷酷になり得る。

 主人公・小山内桐人は、理性と倫理の体現者として物語に登場する。優秀な医師であり、人格にも問題はない。だが「モンモウ病」によって異形となった瞬間、彼は医学の内部から排除される。ここで描かれるのは差別ではない。もっと根源的な制度の論理だ。医学は人を救うが、医学界は人を守らない。その矛盾を、手塚は隠さない。

 重要なのは、この作品に「悪」がほとんど存在しない点である。桐人を利用する者たちは、冷酷ではあるが合理的だ。彼らは職業倫理に従い、組織の利益を最大化しようとしているだけである。つまり『きりひと讃歌』における敵は、人間の悪意ではなく、人間が作った制度そのものだ。

 ここに、手塚治虫後期の思想的転換がある。人間の善性に期待するのではなく、人間が構築した仕組みの危うさを見据える視線である。これは『火の鳥』後期や『アドルフに告ぐ』にも共通するが、『きりひと讃歌』では特に露骨だ。手塚は、もはや「人間は学べば善くなる」とは考えていない。

 国外に舞台を移した後半では、この視線がさらに徹底される。貧困、搾取、医療の不在。そこでは医学は万能ではなく、倫理も通用しない。だが手塚は、これを文明批判として描かない。日本社会も同じ構造の延長線上にあることを、淡々と示すだけだ。これは告発ではなく、確認に近い。

 それでも、手塚は人間を完全には切り捨てない。桐人は何度も逃げ、絶望し、怒りにのみ込まれる。それでも最後の局面で「人間であろう」とする。ここにあるのは理想ではない。意思ですらない。ただの執念だ。この執念だけが、人間を人間たらしめる最後の砦(とりで)として描かれる。

 手塚治虫後期思想の核心は、この点にある。人間は尊いから救われるのではない。尊くあろうとする、そのぶざまな試み自体が、かろうじて肯定される。救済は保障されない。希望も約束されない。それでも人間であろうとする行為だけが、最後に残る。
『きりひと讃歌』という題名は、完成された人間への賛美ではない。崩壊し、踏みにじられ、それでもなお人間性にしがみつく姿勢への、ぎりぎりの肯定である。そこには、若き日の楽天性はない。しかし虚無にも落ちていない。

 この作品は、手塚治虫が人間に対して抱いた最後の問いであり、最後の距離感でもある。希望を語ることをやめ、それでも沈黙しなかった。その地点に『きりひと讃歌』は立っている。

(手塚プロダクション kindle版 297円~)


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