著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

才能とは何か――狂気が社会に承認される瞬間 『ガラスの仮面』(全49巻) 美内すずえ作

公開日: 更新日:

『ガラスの仮面』(全49巻) 美内すずえ作

★あらすじ
演劇の才能を秘めた少女・北島マヤが、伝説の女優・月影千草に見いだされ、過酷な修業と舞台経験を重ねながら成長していく物語である。貧困や孤独、演劇への異常なまでの執着を抱えたマヤは、天才女優・姫川亜弓という強力なライバルと競い合いながら、幻の名作「紅天女」を目指す。才能と努力、芸に人生を捧げる覚悟、その代償として失われていく日常までを描いた、執念の演劇漫画。


 北島マヤは、努力型の天才でも、逆境を跳ね返すサクセスヒロインでもない。彼女は最初から最後まで、きわめて危うい場所に立ち続ける存在である。『ガラスの仮面』を長く読み続けると、この物語が描いているのは才能の開花ではなく、狂気が社会に許容されていく過程であることがはっきりしてくる。

 北島マヤは、舞台と出合う以前から「普通」ではない。家庭環境は不安定で、他者との距離感も歪んでいる。だが決定的なのは、演技に触れた瞬間に起こる変化だ。彼女は演じることを「技術」として理解しない。役を再現するのでも、解釈するのでもない。役に侵食され、役と同一化する。演技中、彼女の人格は消失し、代わりに役が立ち上がる。この状態は集中や没入といった言葉では説明できない。明確に一線を越えている。

 その異常性を最初に見抜いたのが月影千草である。彼女は北島マヤを教育しようとはしない。制御しようともしない。むしろ、壊れる可能性を承知のうえで舞台に引きずり出す。なぜなら月影自身が、同じ種類の狂気を生き延びてきたからだ。彼女にとって北島マヤは後継者ではない。同類である。

 姫川亜弓との対比は、この狂気をより鮮明にする。亜弓は天才であるが、正常だ。訓練し、分析し、完成度を高める。自我を保ったまま演技を積み上げていく。対してマヤは、自我を捨てることでしか舞台に立てない。亜弓が「俳優」であるなら、マヤは「媒体」に近い。自分という器を空にし、役を通過させる。その代償として、日常生活の輪郭が薄れていく。

 ここで重要なのは、『ガラスの仮面』がこの狂気を否定しない点だ。むしろ、舞台芸術という領域では、この狂気こそが真価として評価される。北島マヤは危険で、制御不能で、社会的には不適合者に近い。しかし舞台の上では、その危うさが圧倒的な真実味を生む。観客が「本物」を見たと感じる瞬間は、彼女が壊れかけている瞬間と重なっている。

 紅天女を巡る試練は、この狂気を極限まで推し進める装置である。役を得るために、マヤは生活を犠牲にし、人間関係を断ち、自分自身の境界を削っていく。これは努力ではない。執着であり、依存であり、もはや自己保存本能の反転である。舞台がなければ生きられないという状態は、夢の成就ではなく、精神構造の偏向だ。

 それでも作者は、北島マヤを悲劇の犠牲者として描かない。彼女は自ら選んでそこに立っている。狂気は外から押し付けられたものではなく、内側から求めたものだ。その主体性がある限り、北島マヤは哀れではない。むしろ、徹底して自由だ。常人が決して選ばない生き方を、躊躇なく引き受けている。
『ガラスの仮面』が異様な説得力を持つのは、この狂気を「特別なもの」として隔離しないからである。誰の内部にも、程度の差はあれ、似た衝動がある。何かに取りつかれ、引き返せなくなる感覚。北島マヤはその最も純粋で、最も危険な結晶だ。

 北島マヤは、成功者の物語ではない。彼女は、狂気が才能として社会に承認される瞬間を生きる人間である。『ガラスの仮面』とは、その承認の過程を、冷静に、しかし最後まで目をそらさずに描いた記録なのだ。

(プロダクションベルスタジオ kindle版 440円)

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • BOOKSのアクセスランキング

  1. 1

    一度は行ってみたい世界遺産、飛鳥・藤原の宮都を知る本特集(2)遺跡から浮かび上がる古代人の日常

  2. 2

    女3人で「姦」、では、男3人「𪟧」は何と読む?「辞典には載っていない絶滅漢字図鑑」竹澤雅文(拾萬字鏡)著

  3. 3

    一度は行ってみたい世界遺産、飛鳥・藤原の宮都を知る本特集(3)失われた宮都の景観をCGで再現

  4. 4

    渋さと垣間見える緩さが紛れもなくパトレイバー│「『機動警察パトレイバー』寿司屋の後藤」伊藤和典著

  5. 5

    「すすきの近くの喫茶店でバイトしていたときに経験したのことを膨らませた物語です」──「HOTEL NIGHTHAWKS」小路幸也氏

  1. 6

    (65)扇の緑の松がちらちら見え隠れ

  2. 7

    一度は行ってみたい世界遺産、飛鳥・藤原の宮都を知る本特集(1)飛鳥はなぜ宮都に選ばれたのか

  3. 8

    山崎ナオコーラ(作家)自分たちの生きる能力の低さを実感

  4. 9

    当事者視点から学ぶ規格外を排除する社会の病「認知症の進行を早める生活、遅らせる習慣」丹野智文、恩蔵絢子著/中央法規出版(選者:稲垣えみ子)

  5. 10

    こころの本屋(豊島区・東長崎)「自分の盛大な積ん読本というか『読みたい』と思った本を仕入れています」

もっと見る

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    簗農相の「更迭」に手間取る理由…与野党のどこの誰が反対しているのか

  2. 2

    関脇・藤ノ川が「増量計画」を宣言! あの貴景勝は適正体重130キロから“戦うための183キロ”へ

  3. 3

    長嶋茂雄監督のことを「好きなわけない」とキッパリ “空白の一日”から4年後の本音を語った選手

  4. 4

    簗農相続投で炎上止まらず、自民党内からも批判噴出…高市首相の「アンケート」が完全裏目に

  5. 5

    中日次期監督に工藤公康氏が選ばれて、桑田真澄氏が落選したワケ…元SBコーチ「工藤野球」の正体明かす

  1. 6

    バナナマン日村勇紀の幸せ休養生活 “愛妻”神田愛花アナとのベッドからは唐揚げがポロリ!

  2. 7

    timelesz会見で注目された篠塚大輝の成長 アンチも認めた“完璧な”振る舞い

  3. 8

    落合監督は首脳陣と選手の食事会場を分け酒の差し入れも

  4. 9

    お疲れさま外務省…中国の「高市早苗」呼び捨てに抗議、せっかくの“対話サイン”にイキリ返し広がるア然

  5. 10

    バナナマン日村が簡単に復帰できそうにない「もう1つの理由」…レギュラー11本抱える人気者のジレンマ

おすすめ求人情報

理学療法士/登録型パート/曜日固定も相談可/土日祝固定休!週1日から&1日3時間から勤務可能/時給2000円~2500円
能見台パートリア 神奈川県 横浜市 アルバイト・パート
時給2,000円~2,500円
生コン工場管理/普通免許/経験不問/四日市/日勤/土日祝休
東和レミコン株式会社 三重県 四日市市 正社員
月給24万5,000円~28万5,000円
歯科助手/ブランクOK・土日祝休
医療法人社団躍志会 サンデンタルクリニック 千葉県 松戸市 アルバイト・パート
時給1,200円
食品工場でのフォークリフト運搬/フォーク免許が活かせる/土日祝休/日勤
UTエージェント株式会社 中部第一CU 新潟県 新発田市 正社員
月給21万5,000円~24万5,000円
税務会計事務/未経験歓迎・簿記3級を活かせる/博多駅徒歩5分/リモート可/土日祝休
税理士法人アップパートナーズ 福岡県 福岡市 正社員
月給25万円~35万円
Sponsored by 求人ボックス