「人間交差点」(全27巻)矢島正雄原作 弘兼憲史作画
「人間交差点」(全27巻)矢島正雄原作 弘兼憲史作画
ヒューマンスクランブルという副題はそのまま題名の直訳である。慌ただしい世の中で人々が交錯する場面を鮮やかなストーリーで、しかもウエットに描きだした昭和の社会派漫画の傑作短編集である。
弘兼憲史は作画の位置づけだが、すでに才能の片鱗を見せている。人間の懊悩と機微を描く卓越した能力を、その絵柄だけで十分表現している。いま読み返してもわかるが、登場人物たちの所作、表情を描く技術は、9巻10巻と進むうち、すでにしてトップ漫画家といってもいいレベルに達しようとしていた。
彼が天才であることは論をまたない。しかし天才性が開花するかしないかは、どの世界においても運が必ずからむ。弘兼におけるその運こそ「人間交差点」に作画者として携わったことであろう。
これ以前に描いた連載は「兎が走る」「夢工場」の2本の作画で、前者が小池一夫、後者がやまさき十三という大御所の原作付きである。
ストーリーも書くオールタスクの漫画家デビューは、この次の「ハロー張りネズミ」(1980~89年)だ。そして「人間交差点」(80~90年)の作画に行き着くのである。この時期、弘兼は「ハロー張りネズミ」の原作と作画、「人間交差点」の作画の2本を、並行して2誌に連載していた。
前者「ハロー張りネズミ」ももちろん名作である。しかし“時代を変えた”といえるものかといえばそうではない。あくまで「オールタスクで原作作画ができる」ことをロング連載の全24巻を使って編集部と読者に知らしめるための娯楽作品だった。
こういったハードル的作品はあらゆる漫画家に必要で、たとえば浦沢直樹も人気をとれるエンタメ長編が描けることを証明するためだけに「YAWARA!」を連載したことは有名な話だ。「ハロー張りネズミ」は弘兼憲史にとってそういう作品であり、本当の意味で才をぶつけきったのは、むしろ作画だけの「人間交差点」だったのではないか。
起承転結のしっかりした短編だけに物語構造やキャラをいじることはできず、常にもやもやを抱えながら作画だけで自己表現し、研鑽を続けた。
それがのちの大傑作「課長島耕作」シリーズや「黄昏流星群」につながっているのだろう。
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