法なき世界で、私刑はどこまで正義になり得るか 『北斗の拳』(全27巻)武論尊原作 原哲夫作画
『北斗の拳』(全27巻)武論尊原作 原哲夫作画
★あらすじ
核戦争後の荒廃した世界を舞台に、暗殺拳・北斗神拳の伝承者ケンシロウが、暴力と絶望が支配する世紀末を旅する物語である。愛する者を奪われた人々を救い、弱者を踏みにじる強敵たちと拳を交える中で、ケンシロウは悲しみと怒りを胸に秘めながら戦い続ける。兄弟弟子との宿命的な対決や、愛と犠牲の物語が重なり合い、力とは何か、正義とは何かを問う壮大な黙示録的ドラマが展開される。
ケンシロウという存在を語るとき、多くの人は「正義のヒーロー」と言いたがる。しかしそれは正確ではない。彼は法の代理人ではなく、秩序の守護者でもない。ましてや制度に裏打ちされた正義など一度も背負っていない。ケンシロウが行っているのは、紛れもなく私刑である。そこから目をそらしては『北斗の拳』は読めない。
彼の拳は裁判を経ない。弁明を許さず、判決文も残らない。悪党とされる者たちは、その場で即座に命を奪われる。近代社会の価値観で見れば、これほど危うい存在はない。力を持つ個人が、自らの判断で生殺与奪を決める。そこには乱用の可能性が常につきまとう。ケンシロウは、その危険を引き受けたまま立っている。
では彼はなぜ許容されるのか。なぜ読者は、彼の行為に喝采を送ってしまうのか。その理由は単純で、かつ残酷だ。彼が立っている世界には、もはや法が存在しないからである。裁く制度が失われ、守る仕組みが崩壊した世界で、私刑と正義の境界は必然的に曖昧になる。正義とは理念ではなく、行為としてしか存在できなくなる。
ケンシロウは、その境界線の上に立っている。彼は自分が正義だとは言わない。ただ、ここまでは越えさせないという線を、拳で引いているだけだ。弱者を弄ぶこと。子供や女を道具として扱うこと。恐怖を娯楽に変えること。その一線を越えた瞬間、彼は容赦なく拳を振るう。そこに私情はない。快楽もない。むしろ彼自身が、その役割に疲弊している。
重要なのは、ケンシロウが決して万能ではない点だ。彼は常に迷っている。遅すぎたことを悔い、救えなかった命を背負い続ける。だからこそ彼の私刑は、安易な勧善懲悪に落ちない。彼自身が、その重さを理解しているからだ。力を振るう者が、自らの行為に鈍感になった瞬間、それは単なる暴力になる。その一線を、ケンシロウは踏み越えない。
ラオウとの対比は、このテーマを最も鮮明にする。ラオウもまた私刑を行う。しかし彼はそれを「覇道」と呼び、力による支配を正当化した。そこでは弱者は切り捨てられ、恐怖が秩序の代替となる。ラオウは私刑を制度にしようとした男だ。だから敗れた。ケンシロウは私刑を最後の手段にとどめた。そこに両者の決定的な差がある。
『北斗の拳』が描いたのは、正義の勝利ではない。正義という言葉が通用しなくなった世界で、それでも人間が守れる最低限は何かという問いだ。ケンシロウは答えを提示しない。ただ自分の身体を使って、その問いに立ち続ける。
彼は正義ではない。だが、完全な悪でもない。その曖昧さこそが、このキャラクターの核心である。私刑と正義の境界線に立ち続けること。それは常に孤独で、誰にも承認されず、報われない役割だ。ケンシロウは、その役割を引き受けてしまった男の物語なのである。
だから『北斗の拳』は、単なる暴力漫画では終わらない。力を持つ者は、どこまで許されるのか。秩序が崩れたとき、人は何を根拠に他者を裁けるのか。その問いには人間という愚かな生物が地球上を支配する限り解答を出せないだろう。
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