小林幸子さん お正月には雑煮にした郷土の味「のっぺ汁」
デビューが早かったから、私にとっての子供時代は故郷の新潟で過ごした10歳まで。15歳で両親と姉2人が上京するまでは1人で生活し、それからは東京で家族一緒に暮らしました。でも、今も夢に出てくる母の顔は新潟にいた頃の30代の母なんです。新潟の家のこともすぐに思い出せるくらいよく覚えています。
父・喜代照は新潟鉄工所に勤めるサラリーマン、母・イツは専業主婦でした。ところが、母が「日本は米国に戦争で負けた。これからは肉の時代が来る」と、私が生まれた頃に自宅を改装して肉屋を始めた。新潟は海があるから魚屋は山ほどあると言って。母が作るコロッケはひき肉を入れたカレー味。ちょっとハイカラでとても人気でした。当時は五月みどりさんが歌う「コロッケの唄」がはやっていたんですよね。「今日もコロッケ 明日もコロッケ」って。
店は繁盛して、父が会社から帰ってくると店には長蛇の列ができていたんです。それで、「会社勤めなんかやっている場合じゃない」と会社を辞めて一緒に店をやるようになって。店の右側のお肉は父、左側の総菜が母の担当でした。両親は忙しいから、末っ子の私は手がかからないように店の真ん前でお古の乳母車に乗せられて。お店に来たお客さんがあやしてくれると私はだれにでもニッコリ。おかげで、新潟で人見知りしないという意味の「もじけない」子供に育ちました。
母はニコニコして余計なことを一切言わない人でした。でも、商売が上手で、ポテトサラダを買った人に小さな声で「オマケしておきます」なんてね。
「さっちゃん、遊ぼう」とやって来る近所の子がいたのも母がコロッケをあげたりしていたからかな。みんなリピーターになった(笑い)。
お店にはまだ珍しかった、豚肉で作った本格的なソーセージやチーズも時々並んでいました。当時としてはぜいたくだったかもしれませんね。