宮田律
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宮田律現代イスラム研究センター理事長

1955年、山梨県甲府市生まれ。83年、慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修了。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程修了。専門は現代イスラム政治、イラン政治史。「イラン~世界の火薬庫」(光文社新書)、「物語 イランの歴史」(中公新書)、「イラン革命防衛隊」(武田ランダムハウスジャパン)などの著書がある。近著に「黒い同盟 米国、サウジアラビア、イスラエル: 「反イラン枢軸」の暗部」(平凡社新書)。

レバノンがゴーンを引き渡す日…経済危機とコロナで混迷

公開日: 更新日:

 レバノンに逃亡中の日産自動車の元会長カルロス・ゴーン被告は、7月13日にフランス検察当局から事情聴取のため出頭を求められたが、断ったことを明らかにした。その理由は、国際手配されている中で、フランスへの渡航の往復で身の安全が保障される確信がないからというものだった。また、ゴーン被告は11日に放送されたテレビ・インタビューの中で逃亡先として選んだレバノンが「日本にいるより1000倍よい」と語った。

 しかし、現在のレバノンはゴーン被告の安全を脅かしかねない状態になっている。レバノンでは、日々深刻化する貧困や経済格差の問題への怒りから反腐敗・反政府のデモが昨年10月から激しさを増しているが、不正蓄財を行い、日本の法を破って逃亡して来たゴーン被告は、少なからぬレバノン人から腐敗や不正のシンボルと見られていることだろう。

 対外債務が世界で3番目に多いレバノンでは、3月に政府債務が900億ドルに達し、デフォルト(債務不履行)、つまり対外的な借金を返済できない状態に陥り、社会・経済がいよいよ危機的状態となっている。レバノンには18の宗派が存在し、各宗派に政治権力・経済的利権が分配されているが、それぞれが権利を主張するために、公的部門が膨れ上がり財政を圧迫してきた。既成政治家や官僚たちの腐敗も顕著で、それもまた反政府運動の重要な背景となっている。

 レバノンでは1975年から1990年まで続いた内戦の復興資金として多額の資金を外国から借り入れ、特に湾岸のアラブ諸国はレバノンに資金を注入し続けてきた。しかし、湾岸諸国からの資金の流れは原油安によって滞るようになったし、またこれら諸国はレバノンのシーア派組織ヒズボラ(神の党)を嫌い、レバノンへの融資を躊躇するようになっている。サウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)は、シーア派で、アラブとは異なる異民族ペルシアのイランと親密な関係にあるヒズボラのレバノン政治における影響力拡大を警戒している。米国のポンペオ国務長官もレバノンへの財政支援にはヒズボラを排除する政治改革が必要だと述べているが、他方現政権を支援するヒズボラは米国がレバノンへのドルの流れを妨害していると訴える。

インフレ・失業で国内から逃げ出すレバノン国民たち

「日本にいるより1000倍よい」と語るゴーン被告の思いとは真逆に、生活苦からレバノンから離れることを望む人が多数現われるようになった。多くのレバノン国民たちが海外への移住を考えるようになったのは、既に述べたようなインフレ、失業、貧困など社会・経済危機を背景にする。特にインフレは深刻になり、月平均で56%も物価が上昇するほどだ。通貨レバノン・ポンドは下落し、昨年10月に反政府運動が発生してから80%も価値を下げた。公定為替レートは1ドル=1507.5ポンドに設定されているものの、実勢は1ドル=9000ポンドぐらいになった。レバノンを離れ、外国で職を見つけようにも、航空券は価格がドルで設定されているために、入手が困難な状態になっている。

 さらに、レバノンでも新型コロナウイルスの感染禍があり、5月上旬から6月上旬にかけて都市のロックダウンが行われ、経済はさらに悪化した。7月23日時点で感染者3104人、死者43人を出した。7月1日、ベイルート国際空港が再開されたが、海外にいたレバノン人たちが帰国し、家族、親族に接するようになると、クラスターの発生により感染がいっそう拡大するようになり、7月中旬には1日で170人も感染する日があった。コロナウイルスによって経済がいっそう低迷したレバノンでは、貧困率が45%、失業率は30%と深刻さを増すばかりで、現在の経済状態が続けば、今年終わりには貧困率は75%にも達するという見込みすらある。

 レバノンの1975年から1990年の内戦がそうであったように、様々な宗派グループの緊張があり、さらにパレスチナ難民やシリア難民の流入は社会を圧迫する要因となっている。現在は40%から50%の人々が食料や飲料水を満足に手に入れることができず、また医療・保健衛生システムにアクセスできず、家賃高騰のために、アパートなどにも住めない人が多数現われるようになった。

 昨年10月以来、「政治家の私企業になっている政府にノーを! 政治家による国家の富の略奪にノーを!」などのスローガンが反政府デモでは唱えられてきた。こうしたデモに対峙し、銃器で威嚇してきたのは、武力をもち、既得権益を脅かされると考えたヒズボラや、その同盟勢力である「アマル(希望という意味)」だった。デモは、自由選挙、司法権の独立、政治家たちによって着服された富の回収や、腐敗した政治家を裁判にかけること、また中東での紛争や緊張から免れるための中立的な外交政策を要求するが、ヒズボラやアマルはこうした要求が武装解除を求めるものだと警戒している。しかし、ヒズボラなどが武器でデモを威嚇し抑圧すればするほど、レバノンの他の宗派集団の反発を招き、暴力によってしかヒズボラに対抗できる手段がないと考えていく可能性がある。

■軍の乱れによって内戦の可能性も

 ヒズボラと対立するグループは外国の支援に頼り、また諸外国が現在のリビアのようにレバノン内政に介入すれば、泥沼の内戦に至ることも考えられる。レバノン国軍はレバノン社会を統合する機能を担ってきたが、インフレ、物不足によって兵士の食事から肉も消えた。生活苦によって政府軍の規律や統制が乱れ、武器が横流しされて内戦を戦う手段になる可能性すらある。

 7月3日、東京地検はゴーン被告を逃亡させた米国籍の2人の容疑者の身柄を引き渡すことをマサチューセッツ州の連邦地裁に請求したが、ドナルド・カベル治安判事は10日、2人の容疑者たちに関する日本の請求を拒否する見込みは低いと述べた。ゴーン被告は、自身の逃亡を支えた全員を支援するというが、米国で逮捕された2人の容疑者が日本に身柄が引き渡されれば無罪になることは決してないだろう。混乱が続くレバノンではゴーン被告自身も支援が必要な状態になっていて、内戦などの事態になれば、その身柄を日本に売り渡すグループも現われかねない。

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