”ピストル堤”なき西武は銀行管理になった
傘下に西武鉄道やプリンスホテルを抱えるこの会社のトップは第一勧銀(現みずほ)出身の後藤高志だが、創業者は”ピストル堤”といわれた堤康次郎である。先日、滋賀県出身の新聞記者と話していたら、地元では堤は土手だから、ドテヤスと呼ばれているとのことだった。
ライバルの東急の五島慶太が”強盗慶太”と陰口をたたかれたのに呼応しての”ピストル堤”だが、政界にも進出して衆議院議長にもなった康次郎については悪評も絶えなかった。
息子に詩人でもあり、文化人経営者と称された堤清二こと辻井喬と、西武鉄道グループを継いだ義明がいるが、総会屋の芳賀龍臥に一撃されて義明は失脚し、いわば銀行管理の会社となった。
筑紫哲也編集長の下、『朝日ジャーナル』が辛口の「企業探検」を連載し、私は西武鉄道を担当した。
その時、鎌倉駅から車で10分余りの鎌倉霊園にある康次郎の墓を”探検”したのである。
ちょっとした山のようになっている霊園のてっぺんに、さらに石段を上がって、小公園というには広すぎる広場があった。鐘楼があり、お堂があり、東京湾と相模湾を見下ろせる一等地に、狛犬2匹に守られて康次郎は眠っている。黒いみかげ石に、横書きで「堤康次郎之墓」。揮毫者は内閣総理大臣だった池田勇人である。1964年4月26日に康次郎が亡くなり、その1周忌があった65年以来、1日も欠かさず、ここにグループ各社の社員が2名ずつ、墓参にやってきた。遠く北海道などからも来る。大体、夕方5時ごろまでに着き、6時に鐘を10回鳴らしてお参りし、その晩はお休み所に泊まる。そして翌朝5時に起床。墓掃除をし、やはり6時に鐘を10回鳴らして墓参をする。
義明の失脚後、この墓参はなくなっているのかもしれない。アクの強い創業者が亡くなって二世が継ぐと、結局は銀行管理になってしまう会社が少なくないが、それはいいことなのかどうか。(敬称略)