高卒新人で初登板ノーノー達成 元中日・近藤真市さんは部員120人の大学野球部監督になっていた
あの歴史的試合は星野監督の奇策?
「8月9日はちょうどローテーションの谷間。まさかぼくが登板するとは巨人軍の首脳陣も予想しなかったみたいです。鈴木孝政さんじゃないかと読んで左打者をズラッと並べたくらいですから。先発を告げられたのは試合開始の2時間前。池田英俊投手コーチから『きょう投げてみるか』と。さすがに緊張してマウンドにあがるまではストライクが入るか不安で仕方なかった。先頭打者は駒田徳広さん。第1球は高めのボール球でしたが、打ち損じてくれてファウル。ワンストライク取れたことで落ち着き、速球とカーブで3球三振にしとめました」
近藤登板は星野監督の窮余の一策? 奇策?
「二軍投手コーチだった稲葉光雄さんに後日聞いた話では、星野監督から『巨人戦にぶつけたいので、調整してくれ』という指令があったとか。8月4日の南海との二軍戦で2安打完封したので、9日の登板が最終的に決まったようです」
高卒ルーキーの初登板ながら、ストレート、カーブに加え、フォークもさえたが、実は公式戦でフォークを投げたのはこの日が初めてだった。
「最大のピンチは七回ですかね。仁村徹さんの失策で1死一塁。迎えた打者が原辰徳さん。捕手の大石友好さんのストレートのサインに3度首を振ってカーブを連投。見逃し三振に打ち取ったときは、思わずガッツポーズが出ました」
最後の打者・篠塚を三振に打ち取り、まさかのノーヒットノーラン(四球2失策1)を達成。一躍、野球ファンの記憶に残る左腕となった近藤さんは、その8月だけで3勝を挙げて月間MVPを獲得。翌年も前半だけで7勝を挙げたものだが、その後は順風満帆とはいかなかった。左肩とひじを痛め、89年に手術。さらに91年には左ひじのトミー・ジョン手術も受けたが、思うように回復せず、93年のシーズンをもって引退。短い現役生活となってしまった。
「打者に転向しないかと球団から打診されました。星野さんに相談したら、投手として誰にも真似ができないようなことをやってのけたのだから、投手近藤として野球人生を終えたほうがいいと言われて……、それで踏ん切りがつきました」
現役引退後は、スコアラー、スカウト、投手コーチを歴任。ドラゴンズ一筋に35年。高木守道、星野仙一、落合博満ら7人の監督に仕えた。
父親の背中を見て育った長男の弘基さんもドラゴンズの外野手、球団職員になっている。
いまは尾張旭市で夫人と2人暮らしだ。
(取材・文=中島正彦)