阪神から引き抜き6人の“大晦日の悲劇”…プロ野球裏面史に残るA級スキャンダルの舞台裏
聞けば、慶大出身の強打者で藤村富美男と3、4番を打った看板打者の別当薫も移籍を望んでいるとのこと。別当はこの年、打率.322、39本塁打、126打点をマークしていた。別当に加えて、打っては首位打者、投げてはノーヒットノーランの実績を持つ二刀流で、呼び名は“人間機関車”の呉昌征、ハワイで若林の後輩にあたる一塁手の大館勲も付いて来るというではないか。
この4人とは別に、毎日は球界ナンバーワン捕手だったファイター土井垣武にも接触した。49年は打率.328と強打を振るった。さらに土井垣は二塁手の本堂保次を推薦。理由は「敵のサインを盗む天才で役に立つ」と。これで、4人プラス2人である。
若林ルートと土井垣ルートで主力6選手が甲子園を抜け出して東京へ。野球協約が整備されていなかった時代ならではの産物といえた。47年に強打線で優勝した阪神はこの“大晦日の悲劇”で暗転。50年は首位松竹に30ゲーム差の4位と悲惨な状況だった。阪神がセ初優勝を果たすのは62年だから、立て直しに12年の歳月を費やした。
一方の毎日の初年度は2位に15ゲーム差をつけてぶっちぎりのパ優勝。牽引したのは、43本塁打と105打点の2冠に打率は2位の.335でMVPに選ばれた別当だった。さらに、松竹との最初の日本シリーズでは、第1戦に若林が完投勝ちして勢いに乗り、日本一に。別当はここでも打ちまくりMVPとなった。
阪神はそんなDNAなのか、その後も「お家騒動」が続き、メディアから“オフの風物詩”と皮肉られた。確かに、藤村監督の排斥運動、小山正明と山内一弘の「世紀のトレード」や田淵幸一、江夏豊の放出……など球史に欠かせない出来事が数多くあった。



















