長嶋茂雄「伝説の天覧試合サヨナラ弾」の陰で何が…阪神監督が試合を見ずに号泣していた壮絶事情
1937(昭和12)年に28歳で阪神入り。高校時代にバッテリーを組んでいた若林忠志の誘いだったが、喜んで来日したわけではなかった。その頃の日米関係は思わしくなかった。排日移民法や日本の軍国化などが原因で、しかも日本国籍を持つ教師は免許剥奪との話が出るなど不安の日々。ホノルルの自宅には昭和天皇の写真が掲げられ、親から祖国日本の思いを聞いて育った聡明な田中にとって、来日は人生の岐路といえた。天覧試合は“日本人田中”としての感情が爆発したのだった。
カイザーは37年秋、38年春と阪神連覇の立役者の一人として貢献。176センチ、68キロの体格は当時は大型だった。41年の巨人戦で沢村栄治から三塁打2本、二塁打1本の素晴らしい打撃が球団史に残る。実働8年で477試合400安打、強肩で盗塁をほとんど許さなかった。現役中に二重国籍から米国籍を捨て、日本軍の兵役に就き、北海道で短波ラジオの傍受を担当した。
米国関係のホテルやゴルフ場の支配人から阪神監督に。58年から2年間指揮を執り、いずれも2位の好成績を残した。スローガンは「インサイドベースボール」。小山正明と村山を二枚看板として起用し、球史に残る二塁・鎌田実、三塁・三宅秀史、遊撃・吉田義男の「黄金の内野陣」をつくり上げた。この土台があってのちの優勝につながった。物静かな知る人ぞ知るインテリ監督だった。



















