バレーボールとビーチバレーで五輪4度出場 高橋有紀子さんは横浜で寿司屋の女将になっていた
一人息子は横浜高の元甲子園球児。立教大でも活躍
一粒種の勇気さんは横浜高校時代、レギュラー内野手として現・横浜DeNAベイスターズの度会隆輝、福岡ソフトバンクホークスの庄子雄大らと一緒に甲子園に出場。立教大に進んでからも六大学野球で活躍した。
■自分の現役時代以上に息子の活躍や成績に気をもみました
「息子が選手として活躍できるか、チームが勝てるか、自分の現役時代以上に気をもみました。ママさん仲間とワイワイやりながらフォローをするのは楽しかったですが、心配も大きく、息子が就職し、ようやくホッとしているところです」
勇気さん、バレーはやらなかったんだ。
「息子に『お母さんにいろいろと言われたら嫌だったから』と言われました。たしかに、もしやっても絶対口出しはしないと思ってはいましたが、実際にやっていたらどうなっていたかわかりませんね(笑)」
夫の太郎さんは“少年野球を経験した程度”だが、トップアスリートとしての高橋さんの活動に理解があった。
「この5月まで1年間、Vリーグの『長野GaRons』という男子チームの指導で長野に通っていたし、5年前からはJVA(日本バレーボール協会)理事を務め、今回のネーションズリーグも試合を見に行ったりして家を空けます。そういうことがダメという、私からバレーを取り上げる人なら続かなかったです」
八王子実践─日立─日本代表とエリートコースを歩んだ高橋さん。ビーチバレーの指導者としても、アジアツアーU-21選手権で史上初の銀メダルに導くなど、力量を発揮。そもそもなぜインドアからビーチに?
「インドアは勝たなければいけないプレッシャーが大きく、ソウル五輪で4位に終わったときは、“生きて帰れない”と思うほどでした。それに比べ、ビーチは海辺でプレーするので開放感がありますし、歴史がありすべてが用意されているインドアに比べ、ビーチは食事から練習、スケジュール管理などすべて自分たちの思い通りにできる。それが私には合っていました」
佐伯美香選手と組んだシドニー五輪では、優勝候補の米国を撃破し4位入賞を果たした。
「インドアではセッターだったので、試合中、常に対戦相手や監督、チームメートを観察し心理などを分析し試合を組み立てていたので、それがビーチでも役立ちました。五輪前の1年、ブラジルを拠点にしたのも良かった。ケタ違いのハングリー精神を肌で感じ、私も必死になれました。米国戦は最高の試合ができ、やり切った。メダルに届かず少し心残りですが」
横浜市内で家族3人暮らしだ。
(取材・文=中野裕子)
▽高橋(現・鬼頭)有紀子(たかはし・ゆきこ)1967年11月12日長野県須坂市生まれ。86年、女子バレーの名門・八王子実践高校卒業後、日立入社。88年ソウル、92年バルセロナの五輪に出場。93年、ビーチに転向し、96年アトランタ、00年シドニーの五輪に出場。4大会すべてで入賞の快挙を成し遂げ、33歳で引退。



















