著者のコラム一覧
佐川光晴

◇さがわ・みつはる 1965年、東京都生まれ。北海道大学法学部卒業。2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞受賞。02年「縮んだ愛」で第24回野間文芸新人賞、11年「おれのおばさん」で第26回坪田譲治文学賞受賞。著書に「牛を屠る」「日の出」など多数。「大きくなる日」は近年の中学入試頻出作品として知られる。

第1話 じゃりン子チエは神 <4>

公開日: 更新日:

今度こそ日本代表の座をつかんでほしい

「美岬ちゃん。千春のことが心配なのはよく分かるけど、今は競技に集中しなさい。この合宿があなたの一生を決めるのよ」

 昨年末、美岬はロシアでの代表合宿に向けて日本を発ったが、その前日、莉乃は三男もいるリビングルームで美岬を励ました。

「あなたがオリンピックに出場したら、千春も勇気づけられるんだから。有名になることを恐れちゃだめ。もっともっと活躍して有名になれば、千春をからかう子もいなくなるんだから」

 新体操の団体は5名の選手によって演じられる。合宿には8名が呼ばれていて、美岬の実力は5、6番手だった。ただし見栄えを重視するなら、5名の中に入る可能性は十分ある。だから、「この合宿があなたの一生を決めるのよ」という莉乃の言葉はあながち誇張ではなかった。しかし、いくら千春が学校に行っている時とはいえ、なんという露骨な励まし方をするのだろうと、三男は情けなくなった。

 新体操の団体に求められるのはチームワークだ。5人の一糸乱れぬ動きが感動を呼ぶのであって、目立ちたいならソロで戦えばいい。

 莉乃がそうしたことを分かっていないはずはないが、いざとなると走り幅跳びの選手としての考え方になってしまうのだろう。それとも、美岬が有名になって舞い上がっているのだろうか。おそらくその両方なので、そこに千春がからかわれたことまで加わり、冷静さを失っているのだと、三男は妻の言動を最大限好意的に解釈しようとした。

「美岬ちゃん。あなたの中に眠っている激しい感情を呼び覚まして、なんとしてもメンバーに入るのよ」

 三男は、莉乃がさっきから自分を見ないようにしているのに気づいた。その瞬間、鉄棒から落下した大けがが原因とはいえ、一度も就職することなく専業主夫として生きてきたことがかつてなく身に応えて、三男は膝においていた両手を握りしめた。

 莉乃が美岬に世知辛いことばかり言っているのも、女性でありながら一家の大黒柱としてフルタイムで働き続けてきたストレスのせいなのだと考えると納得がいく。新体操を始めた美岬をあれほど熱心にサポートしたのも、美岬の活躍がいつか家計の支えになると考えてのことだったのだ。

 三男は激しく落ち込んだ。しかし、自分も決して楽をしてきたわけではない。結婚する前は料理も洗濯も裁縫もしたことがなかったのに、必要に迫られて懸命にこなしてきたのだ。母乳が出ない男性の身で子育てをするのが、どれほど大変だったことか。

 それでもやはり、女性でありながらフルタイムで働き続けてきた莉乃の負担のほうが大きかった気がする。いや、しかし……。

 頭の中で自問自答を繰り返していると、「おとうさん」と美岬に呼ばれた。黒目がちな目がいつにも増して潤んでいる。

「いいかい、美岬。ロシアでも、千春のことをうんと心配するといい。でもね、千春はとても強い子だ。きっと、今回のことも自分の力で乗り越えて、さらに強くなっていくに違いない。美岬も千春に負けないように頑張ってきなさい」

「はい。分かりました」

 そうして美岬はロシアへと旅立っていった。

 三男は自分の娘が日本代表候補に選ばれたことが誇らしかった。しかし、本当に大変なのはここからだ。前回のロンドン五輪も直前のけがで出場できなかったのだから、今度こそ代表の座をつかみ取ってほしいと、三男は心から願っていた。 (つづく)

【連載】昭和40年男

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • BOOKSのアクセスランキング

  1. 1

    「最後の幕臣 小栗忠順 挫けども、折れず」増田晶文氏 非業の運命をたどった“ラスト・サムライ”の生涯を描いた1冊

  2. 2

    タイムトラベル専門書店 utouto(板橋・志村坂上)古い門をくぐった先に現れる築110年の蔵を改装した店舗

  3. 3

    「人手不足」なのに仕事探しに四苦八苦「年金だけじゃ生活できない!『定年バイト』奮戦記」林山翔平著

  4. 4

    「芝浦屠場千夜一夜」山脇史子氏

  5. 5

    「新しい戦中」に突き進んでいかないためにはどうしたらいいのか──「一寸先は闇」五木寛之、佐藤優著

  1. 6

    茨木のり子にいわさきちひろ…それぞれの生き方を貫いた女性たちが建てた家「女性が建てた家と間取り」田中厚子、松下希和著

  2. 7

    失敗にめげずニコニコの精神が成長の原動力に「発達障害の私だからこそ、成功できた」似鳥昭雄著/祥伝社(選者:稲垣えみ子)

  3. 8

    連載12352回 座右の書は新聞コラム <5>

  4. 9

    竹内薫(サイエンス作家)鈴木光司さん、またいつか宇宙と時空の神秘を語り合おう

  5. 10

    状況が変わってきた自転車をめぐる混乱を研究者が解説「『自転車』はどこに向かうのか」疋田智著

もっと見る

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    巨人・橋上秀樹監督代行とは何者か…原辰徳氏には干され、阿部監督が心酔した“野村ID野球”の継承者

  2. 2

    (3)巨人の次期監督は誰か…松井秀喜氏、桑田真澄氏より“現実味”帯びる原辰徳氏の4度目登板

  3. 3

    (1)阿部監督の暴行事件は巨人にとって“渡りに船”だったか…異様に早い「解任判断」の裏側

  4. 4

    ゾンビたばこ羽月隆太郎「共犯者暴露」の大きすぎる波紋…広島・新井監督の進退問題にまで飛び火か

  5. 5

    (2)阿部監督「長女の手紙」で潮目一変…巨人が“事件矮小化”を手引きしたのか

  1. 6

    高市首相「中傷動画」疑惑に逆ギレ答弁連発 質問した野党議員の制止振り切り“ご飯論法”で一気まくしたて

  2. 7

    絶好調!巨人・阿部慎之助を支える最強あげまんグラドル小泉麻耶

  3. 8

    ゾンビたばこ羽月隆太郎が涙の激白 広島内で「関与は6人」「壮絶イジメ」「裏切り」【会見全文】

  4. 9

    維新はシャカリキでも産業界は「ノーモア都構想」…企業がごっそり“脱・大阪”前年度比1.8倍増

  5. 10

    広島羽月 お立ち台で見せた初々しい“坊主頭”の意外な理由