昭和の名遊撃手、元阪急の大橋穣さんが死去「これぞ鉄砲肩。半世紀前から今のメジャー級のプレーをしていた」
昭和の名遊撃手として1970年代の阪急黄金時代を牽引した大橋穣(おおはし・ゆたか)氏が、今月18日に都内の自宅で死去していたことが27日、わかった。79歳だった。
大橋氏は日大三高から亜大に進み、当時の東都大学野球リーグ記録となる通算20本塁打をマークし、68年のドラフト1位で東映に入団。2学年上で当時の東映エースだった評論家の高橋善正氏が振り返る。
「東都の本塁打王として鳴り物入りで入ってきたものの、打撃には苦労した。1年目の69年は122試合に出場して打率.217、8本塁打。〝打撃の大橋ではなく守備の大橋〟と冗談半分にからかったものですが、遊撃守備は本当にすごかった。これぞ鉄砲肩という強肩で、送球も正確無比。彼の守備位置は、普通の遊撃手の4メートルか5メートルは後ろでしたからね。
当時のグラウンドは内野は土で外野は芝生という球場が多かったが、大橋だけですよ、芝生の上で守っていたのは。それだけ肩が強く、後ろに守っているから、普通なら三遊間を抜ける当たりもアウトにできる。投手としてあれほど頼りになる遊撃手はいなかった。大下剛との二遊間はまさに鉄壁で、センターに抜けるかという当たりを二塁手の大下が捕り、それを遊撃手の大橋にトスしてアウトにする。今のメジャーではよく目にするプレーを、大橋と大下は当時からやっていた。大橋の肩の強さと守備範囲は、私が一緒にプレーした選手の中では間違いなくナンバーワンでした」