「彼女たちの牙と舌」矢樹純氏
「彼女たちの牙と舌」矢樹純氏
見晴らしのいい高級タワーマンションのリビングで、中学受験を控えた子どもを持つ母親たちがおしゃべりに花を咲かせるところから物語は始まる。塾で知り合ったママ友同士が、情報交換のために定期的に始めたランチ会。互いの生活環境が違う中、微妙な気遣いをしながら彼女たちと付き合ってきた後藤衣織は、ある日、ママ友のひとりから思わぬ告白を受けた。特殊詐欺グループのある男から脅されているというのだ。
「家族関係をテーマにした連作を書くことになった少し前に、闇バイトで主婦が逮捕されたというニュースがありました。闇バイトの加害者といえば、若い人か半グレかだと思っていたので、主婦が加害者側になっていることにすごく驚いて。思わず桐野夏生さんの『OUT』を連想し、今回そんな犯罪に加担した女性を描いてみようと思ったのです」
登場するのは、オンラインメディアで企業の集客を手伝う仕事をしている冒頭話と最終話の語り手・後藤衣織、レストラン経営をする夫を持ち自身は訪問看護の仕事をする第2話の語り手・手島知絵、夫の両親と2世帯住宅に住み不動産会社でパートをしている第3話の語り手・吉葉杏里、そして元読者モデルで今はインフルエンサーとして2万人を超えるフォロワーを抱えている第4話の語り手・久代澄佳の4人。
章が変わるごとに語り手が交代し、知り得る世界が広がっていく。受験対策を語り合う関係性の下にそれぞれが隠している家庭の事情、嫉妬や羨望、嘘や後悔なども見えてくる。本書は、特殊詐欺という犯罪事件を軸に、語り手が変わるごとに景色が反転する驚愕の長編ミステリーだ。
「目指したのはミステリーとホラーの融合。きれいごとではなくて、目的のためには嘘もつけば、外敵に牙もむく女たちが登場しますが、ミステリーとしての要素だけではなくて、時にはホラーにもなるような生身の人間の姿を描きたかったんです」
犯罪に加担するきっかけはごく身近にある。人間関係や経済事情、子育ての悩みなどを他人に黙ってひとりで解決しようとするとき、人は期せずして視野が狭くなり、その場しのぎの方法を繰り返した結果、犯罪に手を染めてしまう。普通に生活していれば犯罪なんて無縁だと思っている読者も、日常の隣に犯罪の入り口があることに驚かされるのではないか。
「彼女たちは状況から抜け出すために必死にあがきます。絶対に悪いことをしないような人間よりも、逆境の中であがいている人の方が男性でも女性でも感情移入できて書きやすい。第1話と最終話の語り手である衣織は、女優の菊地凛子さんをイメージして書きました。衣織はママ友に対して最初壁があるんですが、事件に巻き込まれながら変化し成長していきます。彼女の変化も楽しんでもらえたら」
最悪の状況から抜け出す策を練る中で4人が自己開示していく過程もスリリング。元々漫画原作の仕事をしていた著者だけに、それぞれのキャラクター設定も秀逸だ。
(幻冬舎 1870円)
▽矢樹純(やぎ・じゅん)1976年生まれ。2012年「Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件」で小説家デビュー。短編集「夫の骨」で20年日本推理作家協会賞短編部門を受賞。「マザー・マーダー」「血腐れ」「撮ってはいけない家」など著書多数。