「川は流れる」森詠氏
「川は流れる」森詠著
時は幕末、真夏の北関東の那珂川のほとりで、今年元服を迎える青年が淵に身を浸して、ゆっくり泳ぎ出す清涼なシーンから物語が始まる。その名は板倉誠之介。養父である黒羽藩士の板倉主水丞が、百姓一揆に同調したため減俸処分を受けて厳しい生活を強いられていたが、より良い藩政を目指すその姿に影響を受け、自らも侍としての生き方を探し始める──。
「書きたかったのは、人間の運命についてです。単なる評伝ではなく、運命に対して人がいかに戦ったか。命をかけて戦った人々の世界に、読み手が吸い込まれていくような小説を書きたいという思いがありました。幕末に設定したのは、幕末こそが日本が帝国主義的な方向に突き進んでしまった発端だったからです」
本書は、若き侍の視点から、江戸幕府終焉の時代に、国のあるべき姿を巡って諦めずに戦った人々の熱い思いを描いた長編歴史小説。幼馴染みや良きライバルとの出会い、生き方や剣術の師、恋心を抱いた女性への思いなどを通して、生きる道を見いだす青年の成長物語ともなっている。
これまで描かれた歴史小説の中で、幕末物といえば薩長が主人公の物語が多かった。しかし本書の舞台は、薩長が会津討伐の足場として利用した北関東だ。薩長に乗り込まれた北関東側の状況や心境は、どんなものだったのか。今まで語られることの少なかった下野国黒羽藩主・大関増裕の進歩的な考えや、優れた手腕なども紹介されていく。
「那須は私が幼少期から青年期を過ごした場所なのですが、那須の牧場や農場がみな薩長の私有地になり、そこを拠点に会津の自由民権運動が全部叩き潰されてきた歴史に高校生のときに気づいて、これは植民地主義なんじゃないかと思ったわけです。明治維新は維新なんかじゃなく、自分たちの野望を遂げるため天皇を利用した暴力的な植民地主義だったのだと。そのときあらがった賢明な人々がいて、その流れの一部が本書の物語になっています」
世間を知らない誠之介に、養父は財政的に行き詰まった黒羽藩の歴史や安政の一揆の経緯を教えていた。根本的な財政改革もせぬまま持参金付きの婿養子を当主に迎えることで危機を脱することを繰り返してきたこと。既得権益を膨らますことに専念する家老により、農民が疲弊して耕作放棄が起こり、一揆を起こさざるをえない状況に追い込まれたこと。強制的な米の借り上げで武士でも暮らせなくなる者が出ていることを誠之介は知った。税負担の重さや米不足がニュースになる今と瓜二つの出来事が起きていたのだ。
この問題意識が、のちに誠之介が増裕を藩主として慕い、自らの生き方を定めることにつながっていく。
「幕末だけの問題ではないのです。まずはエンタメとして楽しんでいただき、そこから何かを感じ取っていただけたら」
那須の美しい自然の描写もふんだんに盛り込まれている。峰を連ねる山々の光景や暴れる川の脅威など、人知の及ばない大自然の中、最後まで自らの使命に生きる清廉な主人公の姿が心に残る。
(小学館 2750円)
▽森詠(もり・えい) 東京生まれ栃木県那須育ち。東京外国語大学卒。日本文藝家協会理事。「燃える波濤」で第1回日本冒険小説協会大賞、「オサムの朝」で第10回坪田譲治文学賞受賞。他に「雨はいつまで降り続く」「剣客相談人」シリーズなど人気の著書多数。