著者のコラム一覧
ショーファー佐野作家

ケネディ暗殺の翌年である1965年、アメリカ合衆国テキサス州ダラスに生まれる。早稲田大学理工学部を卒業後、有名総合商社に勤務するも、早々に退職。輸入時計販売業を始める。一期一会を噛みしめながら、一本、一本丹念に販売実績を積み上げてきた。輸入時計を通じて広げた人脈には成り上がり、強者もいれば、化け物もいる。猛者たちとの対峙が己の人生を形作ってきたと考え、本書「高級時計 千夜一夜物語」を書き下ろした。

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 悪意というものは、いつも荒々しい顔をして現れるとは限らない。
 時には礼儀正しく、穏やかな声で、性善説の隙間へと忍び込んでくる。

 電話口で曽根刑事はメモを取っている様子で、丁寧でありながらも淡々と話を続ける。
「ありがとうございます。それでは次に商品に関して教えてください」
「ロレックスの『デイトナ』という商品で、品番は116520、文字盤の色はブラックです」
「シリアルナンバーはお分かりになりますか?」
「分かります。少々お待ちください」
 在庫管理台帳を開く。
 高額時計を扱う以上、ブランド、品番、文字盤色、付属品の内容、そしてシリアルナンバーの管理は必須である。
 私は『佐藤淳』宛てに出荷した商品のシリアルナンバーを曽根刑事に伝えた。

 ステンレススチールのコスモグラフデイトナ、116520。文字盤色はブラック。
 圧倒的な人気を誇るこのモデルに対し私は敬意を払っていた。
 この時計を装着するからにはそれに違わぬ人格を備えていて欲しいという偏った期待感すら抱いていた。
 淡白ながらも必要事項が整然と記載されたメール、短いながらも紳士的な電話応対。
『佐藤淳』は、このモデルにふさわしい所有者である、そう感じた。

 その圧倒的人気の理由に少し触れておこう。
 端的に言うと、「ひとつの時代の最初であり、最後でもあるデイトナ」なのである。
 では、何が「最初」で、何が「最後」なのか。
 ROLEX社が初めて完全自社開発・製造のクロノグラフムーブメント、キャリバー4130を搭載したモデルなのである。
 一方で、ステンレスベゼルを装備した最後のステンレススチール製デイトナでもある。
 後継のステンレススチールモデル116500LN、そして現行の126500LNでは、ベゼルはロレックス独自のセラミック素材であるセラクロム製へと変更された。
「LN」はブラックセラクロム製ベゼルを装備するモデルの品番末尾に付されている。
 前モデルである16520には、ロレックスほどの知名度はないが時計愛好家からはムーブメントの名門として高く評価されているブランド「ゼニス」が1969年に発表した名機、自動巻きクロノグラフムーブメント「エル・プリメロ」をベースとするムーブメントが搭載されていた。
 後継機種の116520は、ゼニス由来のムーブメントから、ロレックス完全自社製クロノグラフへと移行した歴史の節目となるモデルなのである。
 つまり116520ブラックは、単なる人気モデルではない。
 ロレックスが自社クロノグラフ時代へ踏み出した「最初」の一本であり、ステンレスベゼル時代を締めくくった「最後」の一本なのである。

 曽根刑事は『佐藤淳』による計画的略奪劇について、事実確認から入った。
「商品の送付先は横浜市内のマンションですね?」
「そうです」
「そこに郵便局の配達の方が訪問しました。101号室です」
「はい」
「エントランスのインターホンを押すと、オートロックはすぐに解錠されたそうです。配達員の方はそのまま中に入り、エントランスから近い101号室の玄関前まで進みました。ドア脇のインターホンを押したところ、中から男性が出てきたとのことです。身なりの良い、30代半ばくらいの男性に見えたそうです」
 情景が目に浮かぶ、流麗かつ明晰な説明である。
「なるほど」
「彼は言いました。『配達お疲れさまです。代引きですね。現金を奥から持ってまいりますので、こちらで少々お待ちください』と」
「商品は?」
「その際に渡してしまったそうです」
「また、ですか……伝票に保証金額も記載していますし、もう少し注意深く扱っていただきたいですね」
「また、とは?」
 私は、以前「取る」と「盗る」を取り違えた丹下氏(第11話登場)の略奪劇を簡単に説明した。

 私の話に耳を傾けたのち、曽根刑事は続ける。
「あまりにも振る舞いが丁寧で自然だったので、配達員の方も何の違和感もなく商品を渡し、彼が現金を持って戻ってくるものだと思い玄関先で待っていたそうです」
「それにしても渡すべきではないですよね?」
 代金引換とは、言葉の通り、商品と代金を引き換えることが基本原則である。
 しかしながら、その状況を鑑みれば、安堵から気が緩むことも想像に難くない。
「ところで、玄関の扉は?」
「開けたままだったそうです。だから余計に信用したようです」

 身なりの良い男が、自分の家の玄関先で紳士的に応対する。扉は開いたまま。
 そこまで状況が整えられると、疑念が介在する余地はほとんどないとも言える。

「そして、玄関から奥に続く短い廊下の先にすりガラスがはまったドアがもう1枚あり、奥までは見渡せない造りだったそうです」
 私はその光景を頭に思い描く。
「なるほど。それで?」
「かなり待っても戻って来ないので、部屋の奥に向かって声を掛けたそうです。返事がないので、さすがに不安になり部屋に上がり、ドアを開けると、家具どころか何ひとつ物が置いてなくて、ベランダへのガラス戸も開け放たれ、ベランダ先の専用庭にも男の姿はなかった、ということです」
「家具も何もないって、その男の住まいではないのですか?」
「はい、空き部屋でした。」
「空き部屋?」
「はい。空き部屋を自分の住居のように見せかけたようです。集合住宅の場合、管理状況によっては、空き部屋に入れる鍵が関係者の手元にある場合もあるそうです。入居者が決まった時点で鍵を付け替えるとのことです」
「そうなのですね? そうなると不動産屋とかマンションの所有者もグル、ということなのでしょうか?」
「そこまでは調べてみないと分かりません」
 曽根刑事によると「佐藤」の表札があり、玄関の下駄箱上には一輪挿しの花瓶に花まで
生けられていたそうである。
 受け取り場所には、逃走しやすい専用庭付きマンションの1階の一室が選ばれていた。
 玄関、廊下、廊下の先の扉、専用庭、と逃走用のスムーズな動線の確保。
 準備万端の116520略奪劇であった。

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