神宮球場の一塁側ベンチで野村監督が語った“理想の死に方”

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「優勝決めた瞬間、ベンチで死んでいる。みんなが気づいたら死んでいた、っていうのがいいね」

 ヤクルト監督時代の神宮球場、一塁側のベンチで、野村監督がポツリとこう言った。

「最後までユニホームを着て死にたい。理想やな。え、無理か」と言って、含羞の笑みを浮かべた。

 試合前のことだった。監督は、練習を見ながら報道陣を相手にすることが多かった。この日も、話題がたまたま「理想的な死」になって、「ベンチで死にたい」発言が飛び出した。

 前年の1993年、ヤクルトは15年ぶりで日本一を決めていた。野村ヤクルトが誕生して4年目。森西武を相手に、シリーズを制覇して、チームも全盛期だった。

「1年目で耕し、2年目に水やり、3年目で優勝」というのが、就任前の抱負だった。その目標が達成され、監督も「生涯一捕手」から、「生涯野球人」へ覚悟を決めた、というのを教える談話だった。

「ベンチで死ぬ」裏に、日本一の味があった。野球人として究極の夢は優勝、日本一である。西武を倒して日本一になったとき、監督はしみじみとした口調で言った。

「日本一がこんなにいいものとは思わなかった。森(当時の西武監督)のやつ、こんなのを何度も味わってたんやな」

 1977年限りで南海を退団したとき、野村監督は「生涯一捕手」を座右の銘とした。トラブルまみれの退団で、もう監督などやらない、要請などあるわけがない、と考えていた。それが、ヤクルトから監督依頼が来た。自分の経験を生かして、最下位常連球団を日本一に導き、指導者として頂点を極めた。

 単に一捕手でなく、一野球人へ。「おれには野球しかない」。野球と心中したっていい、という思いが「ベンチで死ぬ」発言を生んだと思う。優勝、日本一を達成して周囲は監督を絶賛した。それは結果に対する当然の評価で、監督自身にも大きな見返りがあった。

 振り返れば、テスト生で入団。ブルペンで投手の球を受けるだけの「壁」といわれ、戦力外で雇われた選手が、戦後初の三冠王を取り、プレーイングマネジャーまで上り詰めた。一度は頂点に立ちながら、「女をとるか野球をとるか」と迫られるようなトラブルを起こして解任。それが、思わぬ監督復帰。最下位球団を導き、日本一という結果を生んだ。

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