日本のマラソンに火をつけた山田敬蔵の思い出…戦後80年、忘れていけない足跡がある
生前に何度もそう話した。その通りだろう。ただ、各県には割り当てがあった。16日付の朝日新聞によれば、員数を満たした自治体に補助金が入る仕組みだったという。
今は静かな大館もかつて鉱山の町として栄え、映画館が2軒あった。山田少年はそこで孫基禎がベルリン五輪で勝った映画を見たという。日本が戦後初参加したヘルシンキ五輪の代表になった。ザトペック3冠の大会で結果は惨敗。が、そこで死んだとばかり聞いていた孫基禎に会った。
「子供の頃に映画を見て、いかに敬愛してきたか話したら、先生はとても喜んでくれ、それからは可愛がってもらいました」
ボストン優勝はその翌年のこと。日本のマラソン熱はそこから火がつき、最初の東京五輪で地歩を固めている……。
冬の合宿地だった福島県浪江町の大会で、最後まで食いついてきた高校生がいた。円谷幸吉だった。山田さんは、実績のなかった円谷を自衛隊体育学校の1期生にすべく、織田幹雄を説得し自衛隊まで出向いた。円谷のメダルなしに、マラソンの繁栄はなかった。