日本のマラソンに火をつけた山田敬蔵の思い出…戦後80年、忘れていけない足跡がある
毎朝、近くのコンビニに新聞を買いに行く。ネットは使い手主体だから情報が自分本位に偏るのだ。若い頃は人と会って考えを洗う機会もあったが、年を取ればそうもいかない。さまざまな話題が載る新聞は考えるヒント、180円は安い。
8月は特集が濃く、読売新聞「戦後80年 家族の記憶」、朝日新聞「戦争と政治家」などを読みつつマラソンの山田敬蔵を思い出した。
1953年春のボストンマラソン優勝は、復興に動き出した国内に大きな反響を呼んだ。羽田からの優勝パレード、故郷の秋田県大館では1カ月もしないうちに記念大会が開かれ、半年後には映画「心臓破りの丘」が封切られた。157センチ、43キロの小兵だからなおさら勇気が伝わったのだろう。
山田さんは、高等小学校を卒業した41年、14歳で第5次満蒙開拓団に参加し海を渡った。応募条件の16歳が14歳に引き下げられた年で、卒業式の前日に決めたという。
「無理やりに行かされたんじゃないですよ。校長先生から『君たちもお国の役に立てるよ。よかったら、そういう道もある』と聞き、自分の意思で決めて行ったんです」