伝説の日本人初メジャーリーガー村上雅則さんが懐かしむ 60年前“手荒い祝福”の一部始終と苦労話
スパナ持ってチームメート全員と対決!?
人としても一流のメジャーリーガーと出会い、良い刺激を受けたのだ。しかし、村上さんが野球留学した60年代は人種差別もあったのでは?
「メジャーに上がる前、ジャイアンツ傘下1Aの“フレズノ・ジャイアンツ”でプレーしていた時期、チームでバス移動中、一番前に座って寝ていたら、紙つぶてを3回も後ろから投げられた。頭にきて、運転手席の下にあったスパナを持って立ち上がり、22人いたチームメート一人一人に『おまえか?』と聞いて回ったら、全員驚いて『ノー』と答えたことがあった」
毅然とした態度を示したのだ。
「試合中、審判の判定が明らかにおかしいと思ったときは、審判へ数歩詰め寄って『Why?』と抗議した。審判も『今度やったら退場だ!』と怒ったのをキャッチャーが必死でなだめていたね。試合後、日本食レストランで、日系人のおじいさんに『よく言ってくれた』と両手で握手を求められたよ」
戦中、敵国からの移民として虐げられた日系人にとって、村上さんの抗議は胸のすく行動だったのだ。
「一番大変だったのは、64年に渡米して、最初のキャンプを終え、ホームタウンのフレズノの町に着いたとき。ホテルに宿泊して待っているのに、後見人が3日経っても現れず、所持金がどんどん減った。焦って町の東京銀行へ飛び込み事情を説明していたところ、たまたま通りかかった日系人が自宅を提供してくれて、本当にホッとしたよ(笑)。言葉もわからない外国でお金もなくなると、不安でたまらなかったな」
それでも、西部劇ドラマ「ローハイド」を見て米国に憧れて育った村上さんには、米国生活は本当に楽しかったようだ。
「機上から見おろした町は丘の上に赤、白、黄の色とりどりの家が立っていておとぎの国みたいだし、球場はキレイだし、食べものはおいしい。朝食のバイキングではオレンジジュースを目の前で搾ってくれて、ベーコン、卵、ミルク、新鮮野菜が食べ放題・飲み放題。日本食が食べたくなったら、日本食レストランに行けばいい。ずっと米国でやりたかったけど、高校3年で南海に誘われたとき、『米国留学させてやる』との口約束を守ってくれた鶴岡(一人)監督との約束があったから、2年で日本球界に戻ったんだ」
心残りがあり、82年に日本球界を引退後、渡米し、1年間ジャイアンツの打撃投手を務めた。現在は23歳のときに結婚した同い年の佳子夫人と、品川区内のマンションで2人暮らし。キャリアウーマンの58歳の長女が近所に住み、土曜日には3人で夕食を楽しむ。会社員の56歳の長男も、夫人と1男1女の家族4人で近所に暮らす。長男は法政二高時代、アメフト選手として活躍し2度も日本一になったそうだ。
(取材・文=中野裕子)
▽村上雅則(むらかみ・まさのり)
1944年5月6日山梨県生まれ。63年、法政二高から南海ホークス入団。2年目に米国へ野球留学。アジア人初の大リーガー投手として活躍した。66年に帰国し南海、阪神、日本ハムで活躍。82年に引退後は、解説者やコーチを務めた。



















