「アウシュヴィッツ脱出」ジョナサン・フリードランド著 羽田詩津子訳

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「アウシュヴィッツ脱出」ジョナサン・フリードランド著 羽田詩津子訳

 ナチス・ドイツの時代、ユダヤ人大量殺戮の現場となったアウシュヴィッツ強制収容所から、初めて脱出に成功したのは2人の若者だった。1944年4月7日。19歳のヴァルター・ローゼンベルクと25歳のアルフレート・ヴェツラーは入念な計画を実行に移した。仲間の手助けで材木置き場の下に掘られた小さな穴に潜り込み、長い時が過ぎるのをじっと待った。警報が鳴り、脱走者を捜索する親衛隊員の声が聞こえる。見つかったら、カミソリで自刃する覚悟だった。

 奇跡的な脱出劇を描いたこのノンフィクションは、若いヴァルターに焦点を合わせている。彼は18歳のとき、自分が収容されている施設が「死の工場」であることを知った。この恐ろしい事実をユダヤ人同胞に、そして世界に伝えなければならない。強い使命感に燃えて脱出を決行した。

 3日に及ぶ潜伏の後、捜索の手が弱まるタイミングを見計らい、薄氷を踏む思いで収容所の敷地から抜け出した。身分証明書もまともな地図もなく、わずかなパンと破り取った子供用地図のページを頼りに、ドイツ占領下のポーランドからスロバキアの国境を目指した。手に汗にぎるスリリングな脱出行が続く。

 いくつもの幸運が重なり、痩せてひげぼうぼうの若者2人は、国境を越えた。味方を得て、彼らの証言は「アウシュヴィッツ・リポート」と呼ばれる報告書にまとめられた。シャワー室に見せかけたガス室や死体焼却場の実態が公になれば、ユダヤ人は救われるはずだ。

 しかし本作は、脱出劇の成功では終わらない。イギリス「ガーディアン」紙の記者で作家の著者は、伏せられた現代史に踏み込んでいく。世界はヴァルターが望んだようには動かなかった。事態の裏で、連合国首脳やユダヤ人指導者の政治的駆け引きが行われ、迅速な手は打たれなかった。それでも、いち早くリポートを信じて移送を免れたユダヤ人もいた。ヴァルターは確かに人々を救ったのだ。

 あまり知られていないホロコーストの重要証言者の数奇な人生を描いた本作は、人間の非道、生き抜く力、命の重さなど、大きなテーマをいくつもはらんでいる。

(NHK出版 2970円)

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