野村克也・沙知代「名将を支えた“最低の女房”」(3)衆院選出馬、学歴詐称、脱税…沙知代は世間を騒がせ続けた

一九七七年に南海ホークスを去った野村克也は、沙知代の“なんとかなるわよ”という言葉を頼りに東京へ向かい、同年、金田正一監督率いるロッテオリオンズに移籍。翌七八年には根本陸夫監督率いる西武ライオンズに移籍する。だがいずれのチームでも派手に活躍することはなかった。
克也が現役引退を決めたのは、八〇年九月二十八日の対阪急ブレーブス戦終了後だった。この試合で克也は捕手として先発出場するが、一点差を追う八回裏一死二、三塁の場面で、根本監督は三打数ノーヒットだった克也に代打を送る。克也の二十七年に及ぶ選手生活で初の屈辱だった。克也は代打失敗を祈り、併殺の結果に終わって「ざまあみろ」(「女房はドーベルマン」野村克也、以下同)とほくそ笑んだが、「チームが負けることを望むようになったらおしまいだ」と気づき、四十五歳で引退を決意した。
引退後の克也は、野球評論家として目覚ましい活躍を見せる。
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