ハロウィーンは以前より落ち着いたが…音楽、演劇、お笑い パルコからラ・ママまで渋谷は“カルチャーの街”だった
番組に出演したコピーライター・実業家の糸井重里が、「今の子たちは、矢野顕子でも(忌野)清志郎でも皆大っきいホールでやってたと思ってるけど、(そんなこと)ないんですよ。100人(キャパ)なんですよ」「経済の規模と違うところでカルチャーが動いてた」と語っていたのが印象的だった。
演劇や音楽だけでなく、渋谷はお笑いともゆかりが深い。1986年にコント赤信号・渡辺正行とレオナルド熊が「ラ・ママ新人コント大会」を、同時期に構成作家・神津友好が「円山見番寄席」と題した若手のお笑いライブを始めた。
それまでも、吉本興業や渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)が主催ライブを行っていたが、事務所の垣根を越えて知名度の低い若手たちが競演する“他流試合”の場は、渋谷から広がっていった。その後、人力舎、太田プロダクションなど東京の芸能事務所が、続々と若手芸人のライブをスタートさせた。
渋谷のストリップ劇場「道頓堀劇場」も、コント赤信号らコメディアンたちの修業の場だった。彼らは、ストリップの幕間でコントを披露していたのだ。1995年に閉館した後、オーナーの矢野浩裕氏がセンター街にオープンした「シアターD」も、若手たちが切磋琢磨する劇場だった。


















