上杉鷹山(1)米沢藩は天下に知られた貧乏藩だった
ところが関ケ原の戦いで上杉家は徳川家康に敵対します。取り潰されても文句の言えないところでしたが、なんとか家名は存続。ただし120万石から30万石へと、所領を4分の1に減らされ、景勝は米沢へ移りました。
所領が4分の1になったのですから、普通なら家臣も減らさなくてはなりません。ところが上杉家は大規模なリストラをしませんでした。
さらに約60年後、3代藩主の綱勝が子どもも養子もいないまま26歳で急死します。これまた本来ならお家断絶になってもおかしくありません。幕閣の保科正之が奔走し、綱勝の妹と吉良上野介との間に生まれた綱憲を養子とすることで、なんとか上杉家は存続を許されました。
ただし代償は大きかった。領地はさらに半分の15万石に削られます。120万石が15万石です。それでも上杉家は家臣をほとんど減らさなかった。同じ山形県の庄内藩は14万石で家臣が約1900人。それに対して米沢藩は15万石で5000人を超えていました。ムチャクチャです。
当然、米沢藩は天下に知られた貧乏藩になりました。江戸では「新品の金物から金気を抜くにはどうする?」「『うえすぎ』と書いた紙を貼っておけばいい。金気をみんな吸い取ってくれる」という軽口まではやったそうです。いや笑っている場合ではありません。8代藩主の重定に至っては、領地を幕府に返上することまで考えました。
その重定が養子として迎えた少年がいました。日向国高鍋藩、現在の宮崎県からやってきた秋月松三郎。のちの上杉鷹山です。


















