仁志敏久は“大人の事情”で五輪代表漏れ…とても悔しそうな表情が今でも忘れられない
全日本野球協会会長・山中正竹による「オリンピック野球伝道」(第18回=2020年)を再公開
日刊ゲンダイではこれまで多くの球界OB、関係者による回顧録、交遊録を連載してきた。
当事者として接してきたからこそ見える、あの大物選手、有名選手の知られざる素顔や人となりが記されており、当時の空気や関係性がありありと浮かび上がってくる。本企画では、そうした一編を過去の連載の中からピックアップ。あらためて掲載する。
今回は巨人や横浜でプレーし、現在は西武のコーチを務める仁志敏久氏について綴られた、全日本野球協会会長・山中正竹による「オリンピック野球伝道」(第18回=2020年)を再公開。年齢、肩書などは当時のまま。
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1992年バルセロナ五輪のメンバーは、大学生、社会人のアマ選手のみで構成された。プロが加わるのは2000年のシドニー五輪から。89年からの4年間、何百人というアマ選手の中から、数十回の合宿、海外遠征を経て、最終的に20人に絞る。ギリギリのところで外れた選手たちも、実力は紙一重だった。
そんな中で、私がどうしてもバルセロナへ連れて行きたかった大学生がいた。メンバー入りした小久保裕紀(青学大→ダイエー)と同級生だった仁志敏久(早大→日本生命→巨人)である。