「掟」を破ってナゴヤ球場に外車で乗りつけたら「小松の親分」にコッテリ絞られた
俺が本格的に寮生活を始めたのはプロ2年目から。というのも、ルーキーイヤーは米国とドミニカ共和国の野球留学に費やし、ほとんど日本にいなかったからだ。
最初は名古屋市中村区にあった寮に入った。木の看板で「中日ドラゴンズ合宿所」と書かれた建物で、とにかくボロボロ。畳部屋でトイレは共用、「ハズレ」の部屋はエアコンがついていない。俺は幸い「アタリ」だったが、1年目だったため、米国留学でほとんど空けていた。
翌88年には西区に「昇竜館」が新設された(2003年にナゴヤ球場横に移転)。こっちはピカピカで、部屋に家具も備え付けの洋室。食事もおいしかった記憶がある。ただ、門限は午後10時半と厳しく、門限を破ると罰金が科された。
もうひとつ、俺にとってツラかったのは「外車禁止」という掟。寮生は車に乗れないという中日独自の伝統があった。「外車は一軍半以上」「一軍に定着したらベンツ解禁」という暗黙のルールも存在した。
ちなみに、1年後輩の立浪和義はプロ入り後すぐに活躍していたから、1年目からベンツやフェラーリに乗っていた。しかも、3年目のオフに結婚してすぐに退寮。結果を出していたから当然とはいえ、俺とは待遇も環境もまるで違った。