町野修斗「入る余地がない」とボヤいたカタールW杯…盛り上げ役に徹して固めた北中米大会への決意
FW町野修斗(ドイツ1部 ボルシアMG/27歳)
4年前のW杯カタール大会には追加招集で参加したが、出番なしに終わった。誰よりも「次は必ず桧舞台でプレーしてやる」という思いは強いはずだ。教え子の成長過程をつぶさに見てきた高校時代の恩師が語る──。
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──三重・伊賀市から履正社高に来た経緯は?
「履正社の1期生が、町野が中学時代にプレーしていたFCアヴェニーダソルでコーチをやっているので、その縁で練習に来てもらった。中学時代はボランチだったが(点取り屋としての)センスを感じたので『彼はセンターFWだよ』とコーチらに伝え、最前線で育てようと決めました」
──1年から試合に使ったのですか?
「2つ上に林大地(G大阪FW)と田中駿汰(C大阪MF)がおり、高いレベルを経験させようと思ってメンバーに入れました。忘れられないエピソードがあります。2015年の高円宮杯プレミアリーグ・ウエストの最終節・大分U-18戦でのレッドカードですね」
──しでかしましたか。
「その年は京都橘高の降格が決まり、ウチも下位でしたが、得失点差で大丈夫と思って最終節を迎えました。が、残留を争っていた名古屋U-18が京都橘に前半6-0でリードの情報が入り、勝ちにいく必要性が出てきた。そこで一発に期待して後半途中から町野を送り出したのですが、スローインをゆっくりやろうとした相手選手のところに歩み寄り、コツンと足を出して一発退場です。目が点になりました。本当に町野は<宇宙人>なんです(苦笑)。試合は0-0に終わってプリンスリーグへの降格が決まった。帰りのフェリーはお通夜状態でしたね」
──その年は全国高校サッカー選手権の出場も逃してしまった。
「町野は、先輩たちに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいだったと思います。高2の時にFCアヴェニーダソルの関本監督が急逝した。彼は(私の)四中工の後輩なんですが、葬儀会場で町野に『関本は必ずおまえを見ている』と声をかけました。町野は『プロになって恩返しする』と強い決意を抱いたはずです」
──高校卒業後は横浜マリノス入りしました。
「町野はもともとプロ志向が強かった。でも試合にはまったく絡めなかった。練習に遅刻して大先輩の中沢佑二さん(解説者)に怒鳴られ、自ら坊主にしていったことがあったようです。お調子者で羽目を外す一面がありました(苦笑)」
──-19年以降はJ3、J2、そしてJ1湘南で結果を残した。
「22年に日本代表入りしましたが、町野は『代表はチームが出来上がっているから自分の入る余地がない』とぼやいていました。僕は<できない理由を探す>のは好きじゃない。『自分のキャラクターを出して立ち位置を作っていけばいい』と伝えました。幸いにカタールW杯では長友(佑都=FC東京)選手を見習って盛り上げる役割に徹していたと聞いています。町野は『26年は自分が引っ張っていくんだ』と決意を固めたはずです」
──履正社にとっては最初のW杯選手。
「前回W杯に行ったことで後輩たちに夢を与えてくれましたが、次はピッチに立ってゴールという結果を残すしかない。3月のイングランド戦で聖地ウェンブリーのピッチに立ったことにも感動しましたが、W杯はまた別物。町野には、その大舞台を実際に経験してほしいと願っています」
(聞き手=元川悦子/サッカージャーナリスト 絹見誠司/日刊ゲンダイ)
※ロングインタビュー版は日刊ゲンダイDIGITALで公開中。関連記事から要チェックだ。
▽町野修斗(まちの・しゅうと) 1999年9月30日生まれ、26歳。三重・伊賀市出身。地元FCアヴェニーダソルから大阪・履正社高。J1横浜MからJ3北九州。ここでクラブ初のJ2昇格に貢献。2021年にJ1湘南に移籍して22年にJ1得点ランク2位。23年にドイツ2部キールに移籍。同クラブの1部初昇格の原動力となって25年、1部の古豪ボルシアMGに引き抜かれた。22年7月に日本代表初招集。同年東アジアE-1選手権で代表デビュー。22年W杯カタール大会に追加招集(出場機会なし)。身長185センチ・体重77キロ。
▽平野直樹(ひらの・なおき) 1965年11月2日生まれ、60歳。三重県出身。四日市中央工高3年次に高校総体優勝。冬の全国サッカー選手権ベスト4。元日本ユース代表。順天堂大卒業後にJSL松下電器(現ガンバ大阪)入り。プロ化によってガンバ大阪に移行した92年限りで引退。G大阪、仙台でユース監督など歴任後、2003年に履正社高サッカー部創設と同時に監督に就任。


















