チェーホフの短編を編んだダメ男の恋物語
「黒い瞳」
小説を意味する「ロマン」という語にはロシア語で「情事」や「密会」の意味があるのだそうだ。つまり物語を味わうのは情事に耽ることと同じというわけだ。そんな意味深な一言から始まる大人の映画が今週末封切りの「黒い瞳 4K修復ロングバージョン」である。
初公開は1987年。監督は当時のソ連期待のニキータ・ミハルコフ。製作国はイタリアだが、アントン・チェーホフの短編をいくつか編み合わせた巧みな脚本がよかった。単なる女好きのダメ男の放蕩話に過ぎないのに、その心情がなぜか胸に迫る。男の客ばかりじゃない。(少なくとも初公開当時は)女の客もそうだったのだ。
秘訣はふたつ。ひとつは第1次世界大戦前の、美しく平和なベル・エポックの時代相を戯画風に誇張して描いたこと。おかげで身勝手なエゴイストの話がまるでおとぎ話のいじらしい道化のようになった。もうひとつが主演マルチェロ・マストロヤンニの“人たらし”ぶりである。
いわずと知れたイタリアきっての二枚目演技派だが、端正と軽妙の同居する持ち味は世界に類なし。「黒い瞳」はロマ女に焦がれた男の恋情をうたうロシア歌謡だが、映画では瞳を丸くしてほほ笑むマストロヤンニのクローズアップがすごい。スケベ心ありありなのに純情無垢に見えるというあの芸当!
チェーホフの原作は「かわいい女・犬を連れた奥さん」(新潮社 649円)に収められた諸編。わけても表題作の「犬を連れた奥さん」はトーマス・マンの「ヴェニスに死す」と同型のプロットながら、主人公グーロフの主観と行動の客観描写を、まるで色違いの2本の糸をより合わせたような文章がすばらしい。これを巧みに映像化したミハルコフ。近年はプーチン寄りの体制派芸術家に成り下がったらしいのが寂しい。 〈生井英考〉