津野田興一
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津野田興一都立日比谷高校教諭

1965年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修了。現在、東京都立日比谷高校で世界史を教える。著書に「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)、「やりなおし高校世界史―考えるための入試問題8問」(ちくま新書)、「第2版 ポイントマスター世界史Bの焦点」(山川出版社)など。

“糞尿の都”だったパリ 街の整備の裏に市民革命防止の狙い

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 新型コロナウイルスにより海外旅行も難しくなっていますが、旅行先で圧倒的な人気を誇るのが「花の都」パリです。パリの都市としての歴史はローマ帝国時代にまでさかのぼりますが、一体どのようにして「花の都」になったのでしょうか?

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【資料】便所の穴は、たいてい造りが悪くて、近所の井戸に中身がもれてゆくようになっている。ふつう井戸水を使うことにしているパン屋も、だからといって井戸の使用をやめたりはしない。それで主食には、必然的に有毒有害な物がしみこんでいるわけである。

 汲み取り人はまた、糞便を市街に運んでいくめんどうを省くために、明けがた近くになると、それを下水や溝に流す。その恐るべき沈殿物は、道路沿いに、セーヌ川の方に向かってゆっくり流れ、やがてその岸辺を汚染するのだが、そこでは水売りが朝バケツに水を汲み、その水を知らぬが仏のパリっ子が飲むはめになるのだ。(メルシエ「十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ」上 岩波文庫)

■実はウンチの都

 資料はフランス革命前夜のパリの様子を記録したものです。いかがでしょうか? 「花の都」どころか、これではまるで「ウンチの都」ですね。

 歴史の古いパリは、セーヌ川の中州にあたるシテ島を中心に、人口が増えるたびに市街を拡張していきました。つまり、無計画に市域が拡大したのです。パリ市民の生活を支えるセーヌ川は、飲み水を提供すると同時に下水処理の場でもありましたので、恐ろしいことに上水と下水が一体化していました。街中でブタが飼育されてもいましたが、それは街路に投げ捨てられてゆく廃棄物や排泄物をブタに食べさせるためでもありました。このような不衛生な環境では、しばしばペスト、コレラ、赤痢などの感染性伝染病が流行することにもなったのです。

 嫌な臭いが充満する不潔なパリを嫌ったブルボン家の国王ルイ14世は、パリから離れた田園地帯にベルサイユ宮殿を造営し、パリは国王にも見捨てられた都となりました。

ナポレオン3世とオスマン男爵

 1852年に国民投票で皇帝に即位していたナポレオン3世(写真①)は、パリの改造に着手します。セーヌ県知事オスマン男爵主導のもと、古い街並みを取り壊し、市内に大通りを張り巡らせました。現在観光の名所となっているシャンゼリゼ通り(写真②)も、この時に整備されます。下水道が地下を通り、上水と下水が分離され、ごみごみした狭い路地も姿を消していきました。街を歩けば、エトワール凱旋門やテュイルリー宮殿などの建造物が大通りの先に見え、道の左右には街路樹と共に広い歩道が整備されてカフェでくつろぐことができます。

 ヨーロッパの大国フランスにふさわしい、まさに「花の都」が誕生したのです。

隠れた狙いとは?

 国民の支持を得ることで皇帝になったナポレオン3世の「人気取り政策」でもあったパリ改造ですが、実はそこにもう一つの隠された狙いがありました。

 フランスの歴史を振り返ってみると、しばしば革命が起こり、国王などの権力者が何度も追放されてきた事実に気づかされます。1789年のフランス革命、1830年の七月革命、1848年の二月革命などが典型です。パリの市民たちはなぜ、軍事力を持つ国王を打ち破ることができたのでしょうか?

■「石の要塞」

 先ほどご紹介したように、普段は路地に排泄物などが投げ捨てられていくのですが、国王軍と戦うなどといった緊急時には、窓から机や椅子などを落としてバリケード(写真③)をつくるのです。アン・ハサウェイがアカデミー助演女優賞を受賞した「レ・ミゼラブル」という映画を見た方もいらっしゃると思いますが、まさに一瞬にしてバリケードがつくられていましたね。そしてバリケードの周囲は4階から5階建ての石造りのアパートです。

 つまり、パリはいざという時には、街全体が「石の要塞」に転換できるのです。

 迷路のような街並みをバリケードで封鎖し、国王軍に対しては屋根や窓から石を落としたり銃撃したりすることができました。フランスで革命が起こるのはいつもパリで、そしてそれがしばしば成功してきたのは、このような背景があったからでした。だから、権力を握っているナポレオン3世にとって、狭い路地をなくして道幅を広く取り、区画整理を行って街の見通しを良くすることは、喫緊の課題だったのです。つまりパリ改造とは、フランスの「顔」としてのパリを壮麗な都にする、というだけでなく、来る市民の革命を防止するという、隠れた狙いがあったのでした。

その後

 さて、ナポレオン3世は対外戦争でつまずき、皇帝政治は終わりを告げます。その際、パリの市民や労働者たちは、政府軍に対して武装蜂起を行うのです。これが1871年のパリ=コミューンと呼ばれるものです。結果はどうなったでしょうか? 写真④が雄弁に語っています。広がった街路はバリケード封鎖するには困難があり、政府軍によって突破されていますね。「血の一週間」と呼ばれる弾圧を受けて、パリ=コミューンは失敗します。フランスでは、以後パリでの革命は極めて困難なものになるのでした。

 しかし、ド=ゴール退陣の伏線となった1968年の五月革命、マクロン政権に対する異議申し立てである2018年から19年にかけてのジレジョーヌ(黄色いベスト)運動など、パリの市民たちは、バリケードに頼らない新しい自己主張の運動によって、政治に対する直接的な働きかけを行ったりしています。「花の都」を舞台に今後もさまざまな攻防が繰り広げられることでしょう。

【もっと知りたいあなたへ】

十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ」上・下 メルシエ著(岩波文庫 重版中) 

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