明治政府が閉じた琉球王国450年の幕 日清戦争で日本領に
2019年10月31日未明、衝撃的な映像が世界に流れました。琉球王国時代の王府首里城が焼失したのです。沖縄の皆さんへのエールをこめて、今回は琉球王国の歴史をたどってみましょう。
■中国の方が近い
地図(1)は那覇を中心として同心円を描いたものです。一見してお分かりの通り、東シナ海・南シナ海・太平洋をつなぐ位置にある琉球王国は、1000キロの範囲では中国南部、朝鮮半島南部、そして日本の九州に手が届き、2000キロまで延ばせばフィリピン、中国の北部に朝鮮半島のすべて、そして日本列島の大部分が含まれてしまいます。とりわけ、日本よりも中国の方が距離的に近いことも、当たり前のようですが確認しておきたいと思います。
■首里城を整備した尚巴志
14世紀になると、沖縄本島に三山と呼ばれる三つの王国が誕生します。やがて15世紀前半に、三山の一つである中山王国の尚巴志が他の二国を滅ぼして統一を実現します。尚巴志は首里城を整備して中国からの冊封(中国の歴代王朝が周辺諸国と結んだ君臣関係)を受け、国内の体制を整えました。日本で言えば室町時代に相当する時期でした。
■東アジア世界のハブ
地図(2)に見られるように、15~16世紀にかけて、琉球王国の領域は、奄美諸島から与那国島までの広大なものとなりました。そして明や清といった中国王朝に対して、他のどの国よりも多く、頻繁に朝貢をおこないました。
朝貢ルートとしては、福州の港から北京までの長い道のりを行くのですが、それに付随する中国との交易(朝貢貿易)ができたことで琉球王国は潤いました。
かくして、琉球王国は地図(1)に見られるように、中国・朝鮮・日本・東南アジアを結ぶ、まさに「東アジア世界のハブ」として機能したのです。このような琉球王国の海洋交易を支えていたのが、中国への朝貢という関係性でした(写真①)。実際のところ、琉球は中国の清に朝貢する国々の中で、朝鮮に次いで序列第2位に位置づけられていたのです。
■薩摩の侵攻
しかしこれに先立ち、琉球王国の歴史にとっての大きな転換がおこります。1609年の薩摩による侵攻です。豊臣秀吉の朝鮮侵攻にともなって断絶した明との国交回復のために、徳川家康は琉球王国にその仲介を期待したのですが進展せず、むしろ薩摩による琉球侵攻を承認してしまいます。
これにより薩摩は、奄美諸島を琉球王国から奪って一種の「植民地」のようなものとして利益を奪い、琉球王国からも毎年年貢を徴収しました。のちに薩摩藩が討幕運動の中心となることができた要因の一つに、琉球王国や奄美諸島からの搾取があったことは言うまでもありません。
■資料
一 鑓(やり)も大清の鉾(ほこ)のように拵(こしら)えようこれ有るべし、
一 右の外(ほか)海陸旅立の諸具、異朝の風物に似候ようにこれ有るべし、日本向きに紛わしからざるように相調えるべし、 紙屋敦之著 日本史リブレット43「琉球と日本・中国」(山川出版社、2003年)から
■徳川幕府の思惑
さて、薩摩藩は1709年9月26日付で、資料に見られる命令を琉球王国に出し、琉球王国から徳川幕府への使節の姿を、日本風ではなく清国風にととのえるよう厳しく命じています。これは、清に朝貢する琉球からの外交使節が、わざわざ江戸まで参上してきたという宣伝効果を狙ったものと言えます。
しかしそれは、琉球王国は日本の一部ではありえず、独立国であるということを認めたことにもなります。また琉球王国も、意図的に中国の風俗を用いることで日本に対する主体性を主張し続けました。
一般に、近世における琉球王国の位置づけを「日中両属」などと言いますが、琉球王国は実際には、このような複雑な外交を駆使して独立を維持していたと言えるのです。
■ペリー来航
このような関係性が動揺するのが欧米諸国の来航でした。例えば1853年、日本に向かう前にペリーは琉球を訪れています。翌54年、琉球王国は正式な外交関係をアメリカと結びます。これと同様にフランス(1855年)、オランダ(1859年)とも条約を結んでいたのです。
日本も1854年の日米和親条約と58年の日米修好通商条約を皮切りに、欧米諸国との条約体制下に入りました。
■沖縄県の設置
さて徳川幕府が瓦解して明治政府が成立すると、琉球の「日中両属」関係の解消が議論にのぼります。明治政府は琉球王国に「維新慶賀使」の派遣を求め、1872年9月に実現します。しかし明治政府は琉球王国を廃して琉球藩を設置すると宣言し、琉球国王の尚泰(写真②)を藩王として華族に列して琉球から引き離します。そして琉球王国がアメリカやフランスなどと交わした条約文書は明治政府が回収し、外交権を奪ったのでした。
ところで、日本国内では前年に廃藩置県を実施して諸国の大名を廃止していたにもかかわらず尚泰を藩王としたのは、琉球王国は独立国ではなく日本の一部であると主張するためだったのです。
続けて1875年に琉球藩を内務省に移管したうえで、清への朝貢と冊封を禁止し、日本の年号や年中行事の遵守など日本化を図ります。1879年に明治政府は熊本鎮台沖縄分遣隊300余人と警官160余人を琉球に派遣し、3月27日、首里城において琉球藩を廃して沖縄県を置くことを申し渡しました。中央から県令が派遣され、ここに450年あまり続いた琉球王国は崩壊します。
この時、清朝に救いを求めて中国に渡った人々は「脱清人」と呼ばれました。そして、清はこの事態にどう対応したかというと、琉球王国を日本領とすることに公式には反対し続けます。しかし1894~95年の日清戦争で日本が勝ち、下関条約で台湾が日本領となったことで、間に挟まった沖縄の問題は雲散霧消しました。いわばなし崩し的に「解決」されてしまったのです。
■上から目線の「処分」
日本の歴史では琉球王国の滅亡と日本への編入を「琉球処分」と呼びますが、私はこの呼称に強い違和感を持ちます。中央政府からの「上から目線」のこの呼称は、続く沖縄と本土との関係性を暗示しているように感じられるからです。
さて、このような歴史を首里城は見てきました。現在復元作業が進行中です。再建された暁には、沖縄と本土とのもっと対等になった関係を見守ってもらいたいものです。
■もっと知りたいあなたへ
日本史リブレット43「琉球と日本・中国」紙屋 敦之著
(山川出版社、2003年)880円(税込み)
▼つのだ・こういち 1965年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修了。現在、東京都立日比谷高校で世界史を教える。著書に「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)、「やりなおし高校世界史―考えるための入試問題8問」(ちくま新書)、「第2版ポイントマスター世界史Bの焦点」(山川出版社)など。