「負けたくなかった」具志堅用高、西田浩著

公開日: 更新日:

 1976年10月。21歳の具志堅用高はWBA王者のファン・グスマンにKO勝ちし、新王者になった。格上相手の快挙に、ボクシング界は沸いた。ここから具志堅の人生は変わり、不安や恐怖と闘いながら長い防衛ロードを突き進むことになる。

 共著者は、具志堅を「青春のヒーロー」と呼ぶボクシングファンの新聞記者。具志堅へのインタビューを中心に、関係者の証言、日本ボクシングの歴史を交えてこの半生記をまとめた。

 具志堅は1955年、米軍占領下の沖縄・石垣島で生まれた。野山を駆け回る野性児で、とにかく負けることが大嫌いだった。

 本島の興南高校に入学し、野球部を志望したが、小柄な具志堅は相手にしてもらえず、体重制のあるボクシングを選ぶ。運命の巡り合わせだった。持ち前の負けん気でメキメキと力をつけ、3年生の時、高校の全国チャンピオンになった。

 その先は、大学に進学してボクシングを続け、五輪を目指すつもりだった。

 ところが、ボクシング界はこの逸材を放ってはおかなかった。協栄ジムの金平正紀会長は、具志堅を強引にプロ入りさせてしまう。もう後へは引けない。トンカツ屋に住み込みで働きながら、練習に励んだ。

 デビュー戦で辛勝。アマチュア時代になかった恐怖を感じ、後悔がよぎる。重圧に耐えて頑張り抜き、2年後、グスマン戦で世界王者になると、その後は勝ち続け、13回防衛の日本記録を打ち立てた。

 1981年、14回目の防衛戦でペドロ・フローレスに敗れ、王座陥落。「俺のボクシング人生は終わった」と感じた。まだ25歳だった。その後、テレビの人気者になっても、ボクシングを忘れてはいなかった。1995年、白井・具志堅スポーツジムを開設、浦添市出身の比嘉大吾を世界王者に育て上げた。

「海外でビッグマッチができるような世界的スターを育てたい」という夢を抱いて、長い第二の人生を歩き続けている。

(中央公論新社 820円+税)

【連載】人間が面白い

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    高画質は必要ない? 民放各社が撤退検討と報じられた「BS4K」はなぜ失敗したのですか?

  2. 2

    気温50度の灼熱キャンプなのに「寒い」…中村武志さんは「死ぬかもしれん」と言った 

  3. 3

    広陵暴力問題の闇…名門大学の推薦取り消し相次ぎ、中井監督の母校・大商大が「落ち穂拾い」

  4. 4

    巨人阿部監督はたった1年で崖っぷち…阪神と藤川監督にクビを飛ばされる3人の監督

  5. 5

    (4)指揮官が密かに温める虎戦士「クビ切りリスト」…井上広大ら中堅どころ3人、ベテラン2人が対象か

  1. 6

    U18日本代表がパナマ撃破で決勝進出!やっぱり横浜高はスゴかった

  2. 7

    日本ハム・レイエスはどれだけ打っても「メジャー復帰絶望」のワケ

  3. 8

    志村けんさん急逝から5年で豪邸やロールス・ロイスを次々処分も…フジテレビ問題でも際立つ偉大さ

  4. 9

    佐々木朗希いったい何様? ロッテ球団スタッフ3人引き抜きメジャー帯同の波紋

  5. 10

    (2)事実上の「全権監督」として年上コーチを捻じ伏せた…セVでも今オフコーチ陣の首筋は寒い