「日本語の発音はどう変わってきたか」釘貫亨氏

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「日本語の発音はどう変わってきたか」釘貫亨氏

 室町時代の資料にこんななぞなぞがある。

「母とは2度会ったが父とは一度も会わないもの、なーんだ?」

 答えは唇だという。なぜなのか。

「室町時代、母は“ハハ”ではなく、“ファファ”と発音されていたんですね。ファファは上唇と下唇を2回合わせて発音しますが、父は“ティティ”か“チチ”と発音するので唇は合わないというわけです」

 我々が日頃耳にする馴染みのある日本語は、現代とは異なる発音がされていた時代を経て今に至る。

「有名な武将、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、当時、“ハシバヒデヨシ”ではなく“ファシバフィデヨシ”と発音されていたはずですよ。秀吉に対する印象ががらっと変わってしまいそうでしょう?」

 本書は奈良時代から江戸時代半ばまでの日本語音声の歴史をたどったものである。これまでも、おのおのの時代の発音について研究者が記した本は存在したが、1000年以上の時代を通して日本語の発音の変遷を解説したものは非常に珍しい。

 録音機器もない古代の発音がなぜ分かるのか不思議だが、「奈良時代に用いられた万葉仮名の発音は、当時の中国語の音読みを利用しています。ですから、当時の中国(唐時代)の音が分かれば奈良時代の音声も分かるわけです。明治以降、言語学者らによる研究で明らかになったのは、『ハ行』の発音は、現代のような『ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ』ではなく『パ・ピ・プ・ペ・ポ』だったということです」。

「日本書紀」に登場する神「アメツヒコヒコホノニニギノミコト」は、実は「アメツピコピコポノニニギノミコト」の発音だったという。さらに「サ行」も「サ・シ・ス・セ・ソ」ではなく「ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ」の音だった。そのうえ、奈良時代の母音は「ア・イ・ウ・エ・オ」のイとエとオにそれぞれ2つの発音があり、全部で8つであったというから、もし、現代人が奈良時代の人々の会話を聞いたら、かなりチンプンカンプンであっただろう。

 以降、日本語の発音は中世にかけ大きく変化していった。

「平安時代には漢字が崩れてひらがなやカタカナができ、イ音便やウ音便(書きて→書いて、買ひて→買うてなど)など4種の音便が発生しました。そして、伝えたい情報量が増えてくるにつれ、長くなった単語の発音はルーズになってきたわけですね。ハ行のパ・ピ・プ・ペ・ポは、両唇の動きが退化してファ・フィ・フ・フェ・フォの発音になり、8つの母音はイ、エ、オの発音が2つずつありましたが、それぞれ1つになり、5母音に減りました」

 ファ・フィ・フ・フェ・フォとなったハ行音が現代のハ・ヒ・フ・ヘ・ホの音になったのは江戸時代と推察されている。平安時代に書かれた「源氏物語」に登場する「胡蝶」の発音は、「てふ」から「てう」、やがて「ちょう」と時代とともに変化をとげた。

 本書はほかにも漢字に音読みが複数ある理由や近世の仮名遣いなど興味深い内容が書かれている。

「日本人は訓読みと音読みを使いこなし、本来外来語である漢字を、それとは感じさせないほど深く日本の文化に浸透させてきました。この力が明治以後、西洋由来の外来語を日本に難なく取り込めたことにつながったのではと思っているんです」

(中央公論新社 924円)

▽釘貫亨(くぎぬき・とおる)1954年、和歌山県生まれ。名古屋大学名誉教授。京都教育大学卒業。東北大学大学院文学研究科日本語学博士後期課程中退。富山大学講師、名古屋大学教授などを経て現職。著書に「古代日本語の形態変化」「『国語学』の形成と水脈」など。

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